中世における式年造営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 13:47 UTC 版)
鎌倉時代に入ると、諏訪社が信濃国の政治・軍事の中心となり、式年以外でも国内の庄郷や豪族を御頭(おとう)として神社運営のための資金や人手の負担をさせたり、また御符を発行して各地に祭費を徴収した。 『吾妻鏡』文治2年11月8日(1186年12月14日)の源頼朝下文には「早く先例に任じ、且つ御狩に勤仕せしめ、且つ拝殿を修造せしむべし」とあり、当時には「御狩」と「拝殿修造」が既に伝統行事とされていたことを示している。諏訪上社の大祝・諏訪信重が幕府に提出した解状(伝・1249年(建長元年))にも、「上社寅申年は二月初寅申、御符当国中に弘め米銭集め、同四月初寅申、御柱引き奉る、御殿は安曇・筑摩両郡の所役と為す、三万五千人の夫を以て勤仕せしめ之を刻む」と書かれている。
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