中世における甲斐・信濃間の道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 20:45 UTC 版)
「棒道」の記事における「中世における甲斐・信濃間の道」の解説
古代の律令国家は甲斐・信濃間における駅路を設定していないが、中世前期には甲斐・信濃間における交通を記した文献史料が見られる。 『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月15日・24日条によれば、治承・寿永の乱において以仁王の令旨に応じて挙兵した甲斐源氏の一族が、信濃国の平家方を討伐すると9月14日には甲斐へ帰国し、同日夜には「逸見山」において伊豆国の源頼朝の使者・北条時政に対面したという。甲斐源氏の一行は9月24日に時政とともに石和御厨(笛吹市石和町)へ移動している。 十五日、甲子、武田太郎信義・一条次郎忠頼已下、討得信濃国中凶徒、去夜帰甲斐国、宿干逸見山、而今日北条殿到着其所給、被示仰趣於客等云々、 — 『吾妻鏡』治承4年9月24日条 「逸見山」の所在地は不明であるが、八ヶ岳南麓の逸見牧・逸見荘の存在した谷戸城(北杜市大泉町)・若神子城(北杜市須玉町)に比定する説がある。「逸見山」の所在を八ヶ岳南麓とした場合、後代には甲斐から信濃へ向かう棒道が通過していることから、平安後期においても棒道の前身となる道が存在していた可能性が考えられている。
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