中世における行基図とは? わかりやすく解説

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中世における行基図

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 14:18 UTC 版)

行基図」の記事における「中世における行基図」の解説

前述のように最古行基図とされているのは、延暦24年作成伝えられているが、原図は既になく、現在伝わるもの江戸時代有職故実研究家藤貞幹藤井藤原とも、1732年1797年)の写しのものであり、か延暦24年実情不一致加筆見られる(これが藤貞幹よるものか、それ以前からのものなのかは不詳)。 大治3年1128年)に三善為康書いたものを原典として鎌倉時代にまとめられとされる二中歴』や南北朝時代洞院公賢により書かれとされる拾芥抄』にも行基図添付されているが、書かれ当時のものは残っておらず、現存のものは室町時代以後のものである現存しかつ最古のものは鎌倉時代嘉元3年1305年)の銘がある京都仁和寺所蔵の『日本図』でありこちらは西日本部分欠けている。また同時期に他の所有者地図から転写されたと推定されている称名寺所蔵神奈川県金沢文庫保管)のものであるがこちらは東日本部分欠けている。両者大きく違い別系統属すると考えられ前者典型的な行基図体裁であるが、後者元寇以後軍事的緊迫下にある鎌倉近郊用いられ事情反映したものか、日本列島は龍らしき生物囲まれてその外側唐土蒙古などの海外国々雁道羅刹国などの空想上国々描かれている。 東日本および西日本揃っているもので最古のものは14世紀半ばと見られる日本扶桑国之図』(にほんふそうこくのず)があり、2018年平成30年6月16日広島県立歴史博物館公表したのである戦国時代弘治3年1557年)に描かれとされる南贍部洲大日本国正統図』(伝香寺旧蔵、現唐招提寺所蔵)は、日本地図周辺外枠郡名などの情報記載されている。この図あるいは同一スタイル地図江戸時代の行基図基本となっていく。また、この時代には屏風絵背景などにも行基図採用された。安土桃山時代の作とされる福井県小浜市発心寺屏風絵などがその代表作である。 なお、室町時代以後行基図朝鮮半島中国遠くヨーロッパまでも伝わって日本地図を描く時の材料にされたといわれている(『海東諸国記』・『日本一鑑』など)。

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