中世における霊廟とは? わかりやすく解説

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中世における霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 04:21 UTC 版)

マウソロス霊廟」の記事における「中世における霊廟」の解説

マウソロスの霊廟は、ハリカルナッソス中心地に何世紀もの間建っていた。紀元前334年アレクサンドロス大王によって町が陥落したときも、紀元前60年前後海賊襲撃受けたときも、被害受けず残っていた。そして、1600年もの間、廃墟となった町を見下ろすように建っていたが、度重なる地震によって崩れ屋根乗っていた馬車の像は地面落ちてしまった。1404年には、ただ土台だけが確認できたのみであった15世紀のはじめ、聖ヨハネ騎士団がこの地を侵略し巨大な城を建てた1494年にこの城を要塞化することが決まると、彼らはマウソロス霊廟残骸資材として使った。さらに1522年オスマン軍攻めてくるという噂が流れると、彼らはボドルム(旧ハリカルナッソス)の要塞強化し残っていた残骸もすべて城壁使われてしまった。今日でもこの要塞跡の壁に、かつて霊廟使われていた大理石を見ることができる。 記録によればこのころ騎士一団霊廟跡の土台立ち入りの間を発見している。発見した日はすでに帰営時間になっていたので、一団開けず立ち去った翌日、彼らが開けると、あるべき宝やマウソロスアルテミシア遺体無くなっていた。騎士たちは、周辺の住民海賊略奪した主張したが、実際に略奪したのは騎士たち自身であったとも言われるマウソロス霊廟残っていた彫刻砕かれ城壁資材とされる前に騎士たちはいくつかの優れた作品移動してボドルム城集めておいた。それらは、十字軍引き上げた後も300年にわたりそこに保存された。また、これらの内いくつか大英博物館収蔵され、後の霊廟跡の発掘にも資料として影響与えることとなる。

※この「中世における霊廟」の解説は、「マウソロス霊廟」の解説の一部です。
「中世における霊廟」を含む「マウソロス霊廟」の記事については、「マウソロス霊廟」の概要を参照ください。

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