中世における陣形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 03:54 UTC 版)
武士が登場するが、魚鱗や鶴翼の記述が出てくるも、定形の陣形ではなく、密集するか、横に広がるかといったレベルだったとみられる。源平時代(12世紀)、『平家物語』巻第七に平家方が陣形を意識して戦うも源氏をおさえられない記述がみられ、古代蝦夷戦と同様、陣形を意識している側より源氏のように中小の独立部隊で戦った側の方が、事を有利に運び、最終的に勝利している。そして政権を樹立した源氏の鎌倉幕府には陣形を使用した記録がない。 中世前期、南北朝期では、武士は領主別編成であり、兵種別に編成することは難しく、ゆえに「軍隊」ではなく、「軍勢」であり、定形の陣形を行うことも難しかった。 足利時代に至り、中世型の兵種別編成が芽生え、盾兵・弓兵・騎兵の順であり、この編成が戦術を多様化させることとなる。これは騎兵主体の時代ゆえ、その機能を十分働かせるために、盾・弓兵といった歩兵を前列にし、騎兵対騎兵を行わせるための、いわば「騎兵のための隊形」として登場した。 戦国期に至り、軍勢から軍隊へと編成が行われる始まりは東国からとされる。鉄砲の出現によりそれまで可能だった一人先駆けの戦法が難しくなった上、足軽・雑兵が台頭したことで、大名が歩兵を自由に再編することが可能となり、より兵種別編成が固定化されることとなった。戦国期に徹底した武装の指定を行ったのは、武田・上杉・北条氏といった東国大名達であり、西国の織田氏はむしろ動員人数すら定めておらず、家臣に対し、兵をもっと増やせといった檄を飛ばす程度にとどまっている。
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