中世における錦の御旗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/21 13:36 UTC 版)
官軍を象徴する旗に関しては初めから定まった形があったわけではない。源頼朝の奥州合戦では「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と鳩の意匠が入ったもの(『吾妻鏡』より)が用いられ、後醍醐天皇が笠置山に立て籠もった際には日輪と月輪の意匠が入ったもの(『太平記』より)が、室町幕府初期には「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と日輪の意匠が入ったもの(『梅松論』より)が用いられたと伝えられている。後に室町幕府では日輪と「天照皇太神」と入った錦の御旗と足利氏の家紋である二両引と「八幡大菩薩」と入った武家御旗(幕府の旗)の2種類が用いられた。 錦の御旗を用いるには天皇の治罰綸旨が下されることが必要とされていたが、実際の御旗は綸旨を受けた側(この場合には室町幕府)が自分で用意する必要があった。このため、錦の御旗の大きさや旗竿の長さなどは武家御旗のそれとともに武家の故実に属していた。また、錦の御旗を掲げる事が出来る大将は足利氏を名乗れる将軍の一族、武家御旗を掲げる事が出来る大将は足利氏の一門に限定されていた。
※この「中世における錦の御旗」の解説は、「錦の御旗」の解説の一部です。
「中世における錦の御旗」を含む「錦の御旗」の記事については、「錦の御旗」の概要を参照ください。
- 中世における錦の御旗のページへのリンク