中世における背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/29 01:26 UTC 版)
ヨーロッパ中世世界においては、文法はあらゆる学問が依って立つ基礎であると考えられていた。グラマースクール(文法学校)やラテン・スクール(ラテン語学校)では、ラテン語を使ってラテン語を教えていた。ほとんどすべての学問、大部分の法曹や行政関係の業務で、ラテン語が使用されており、もちろん教会の典礼もラテン語で行なわれていた。平信徒の中にも、正式に教えられたことがなくても、ラテン語を少々話したり、書いたりする者がいた。裁判においても、ラテン語を解さない当事者にとって不公正であったにもかかわらず、訴訟手続きには全てラテン語が用いられ、とりわけ教会裁判ではそれが著しかった。 ラテン語学校の生徒は、多くの場合、5年ほど在学することになったが、3年生ともなるとラテン語の文法を「十分に理解した」とされて、下級生や劣等生の指導にあたる教師の補助を務めることがよくあった。7歳の少年であれば 、入学年齢に達していると見なされ、入学そのものが、幼い子ども(early childhood)から少年(boyhood)への成長と見なされた。しかし、より年長の男性でも、授業料を支払いさえすれば、入学して学ぶことができた。生徒たちは、通常は十代後半には学修を終えたが、聖職に進むことを望む者は24歳になって叙任されるまで在学して待機しなければならなかった。在学年数には通常は一定の制限があったが、例えば、その学校の創設者の親族である場合などに延長が認められることもあった。 ラテン語学校の運営は、委員会に委ねられており、委員会は教師を雇って賃金を支払った。この種の学校に対する町の行政当局の監督権限は、通常はごく限られたものであった。どこに所属しているわけでもないフリーランスのラテン語教師が、自ら学校を開き、授業料を支払う者なら誰にでもラテン語を教えることもよくあった。こうしたフリーランスの教師による学校は、教師の自宅で教えているのが通常であった。このほか、家庭教師として生徒の家に住み込んだり、毎日通って教える者もいた。こうして学ぶ生徒は、小作農の子弟からエリートまで幅広い階層にわたっていた。もし、農奴の子が学校へ行きたいと望むようなことがあれば、その子の労働価値に見合うだけの補償金が主人に支払われることになっており、主人の承認がなければ学校には行けなかった
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