中世のエディンバラ市街(11世紀から1560年)
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「エディンバラの歴史」の記事における「中世のエディンバラ市街(11世紀から1560年)」の解説
973年のチェスターでの会議において、イングランドのエドガー平和王がロージアンをスコットランド王ケネス2世(英語版)に公式に与えた。歴史家のマージョリー・アンダーソン(英語版)は、これがスコットランドによるロージアン統治を確実にする重要な出来事であったと考えている。1018年のカラムの戦い(英語版)でのマルカム2世の勝利によってこの地域へのノーサンブリアの脅威は終焉し、11世紀初頭までロージアンへのスコットランドの支配は盤石なものとなった。マルカム3世大首領王(在位1058年–1093年)はフォースの北に位置するダンファームリンに王宮と邸宅を持っていたが、妻のマーガレットに愛情を注ぐにつれ、彼女のために教会を建てたエディンバラで過ごすようになった。エディンバラ城内のセント・マーガレット教会堂は現存するエディンバラ最古の建築物と伝統的に見なされているものの、ほとんどの研究者は現在、現存する形式でのこの教会はマーガレットの末の息子であるデイヴィッド1世によって母を追悼して建設された可能性が高いと考えている。 12世紀(1130年頃)、デイヴィッド1世はスコットランドの最初の勅許自治都市の一つとしてエディンバラの街を築いた。この街はキャッスル・ロックの斜面に建てられ、城の城壁によって守られていた。商人には、長い市場通りの両脇に沿った「トフト(英語版)(toft)」と呼ばれる細長い土地が、1年と1日以内にその土地に建物を建てるという条件の下で割り当てられた。それぞれのトフトは通りから境界の溝まで伸び、(高い壁に囲まれた庭を意味する)私的な「クローズ close」(古フランス語のclosに由来)を形成した。ホリールード寺院によって保有されたエディンバラの街に隣接する王国領自治都市(英語版)は東はキャノンゲートのバラ(英語版)まで発展した 。 スコットランド独立戦争の期間の1291年から1314年までと1333年から1341年まで、エディンバラは主にイングランド人の支配下に置かれた。1219年にはイングランド貴族、バセット卿(英語版)がエディンバラ城の城主(英語版)となった。1298年のイングランドがスコットランドに侵攻(英語版)した時、エドワード1世はイングランド人が支配するエディンバラの街への立ち入ることをせず、軍隊と共に通り過ぎた。 1334年、イングランドの傀儡であったスコットランド王位僭称者エドワード・ベイリャルは、ニューキャッスル条約の一部としてエディンバラを含むスコットランド南部の大部分をイングランド王エドワード3世へ与えた。スコットランドの主要な貿易港であったベリックが1330年代にイングランドの占領によって失われた後、スコットランド王国の利益の多い皮革、そして最も重要な羊毛の輸出の大半はエディンバラとその近くのリース(英語版)の港を通して行われた。14世紀中頃までのデイヴィッド2世の時代、フランスの年代記史家ジャン・フロワサールは当時400戸ほどの人口を擁していたエディンバラを「スコットランドのパリ」と形容した(1365年頃)。スコットランド王ジェームズ2世(1430年–1460年)は「ホリールード寺院で生まれ、戴冠し、結婚し、埋葬された」。ジェームズ3世(1451年–1488年)は勅許状の1つの中でエディンバラを「我らの王国の第一のバラ(principalior burgus regni nostri)」と形容した。ジェームズ5世(1512年–1542年)の治世まで、エディンバラの課税評価は王国の第2位から第4位までのバラの合計額と等しいこともあった。その税収はスコットランドの全てのバラからの合計の1/5から1/4までの規模に達し、総関税は半分あるいはそれ以上の比率であった。同時代の人々によって報告された1544年のハートフォードの急襲(英語版)の時期の大規模な破壊にもかかわらず、エディンバラの街は、王室と貴族の要求に応え続けた商人自由市民(英語版)と職人の集団によって徐々に復興した。 エディンバラの職人組合(英語版)には靴職人、帽子職人、織工、大工、金物師、皮革業者、肉屋、たる職人、レンガ職人、洗い張り屋、仕立て屋、床屋、パン屋、蝋燭職人などが登録されていた。16世紀、17世紀には街の中心地に課される税が上がったため、これらの職人の一部は街の境界を超えて郊外へと引っ越していった。 1560年には、スコットランドの総人口は10万人で、そのうち12000人はエディンバラに暮らし、4000人はリースの港やキャノンゲートなどエディンバラ近郊に暮らしていた。1593年の教区の人口調査では8003人の大人がハイ・ストリートの南側、北側に均等に分かれて暮らしていたことが記録されている。雇用者の45パーセントが法律の専門家および商人の家、あるいは地主階級の市街地の別宅で働く家事使用人であった。
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