エドガー (イングランド王)
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エドガー平和王 英 : Edgar the Peaceful |
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エドガー王の肖像画
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先代 | エドウイ端麗王 |
次代 | エドワード殉教王 |
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出生 | 943年又は944年[1] イングランド |
死亡 | 975年7月8日 享年30-32歳[1] イングランド ウィンチェスター[1] |
埋葬 | グラストンベリー修道院[1] |
王室 | ウェセックス家 |
父親 | エドマンド1世[1] |
母親 | エアルギフ・オブ・シャフツベリ |
配偶者 | |
子女 |
エドガー(英語:Edgar、若しくはEadgar[4]、944年ごろ - 975年7月8日)とは、10世紀のアングロサクソン人イングランド王(在位:959年 - 975年)である。エドガー平和王(Edgar Peacemaker、Edgar the Peaceable)とも呼ばれる。エドガーはイングランド王エドマンド1世とエルフギフの次男であり、兄王エドウィの死後、王位を継承し、全イングランドの王の座に就いた。エドガー王の治世についての詳細はあまり残されていない。当時の年代記編者や修道士たちは主に教会の指導者たちの活動の記録に注力を注いでいたため、エドガー王の治世における出来事などはあまり記されていないためである。
エドガー王は基本的に以前の国王たちの政策を踏襲していたが、宗教政策に関しては大きな変化がもたらされた。彼が強く支援したイギリスの修道院改革はイングランドにおいて宗教的社会的に支配的な勢力となった[5]。この改革運動はエドガー王の大きな功績の一つと考えられており、この運動は宗教改革のみならず、主にウィンチェスター司教エゼルウォルドに関する文学的芸術的な開花をともなった。修道院勢力はエドガー王の助力を得て、積極的に世俗勢力から多くの土地を獲得していったが、エドガー王の死後、修道院に土地を奪われた世俗領主たちと修道院勢力の間で対立が起こる結果となり、時には武力衝突すらおこった。また、宗教改革への助力と並行して、エドガー王は行政改革も推進し、970年代初頭にはそれまでの分散的な貨幣制度を改め、イングランドでの統一硬貨制度を導入したことが改革の例として挙げられる。また、法の執行手続きの改善を主眼とした法典の発布も行ったとされる。
エドガー王が王座に就く以前、イングランドはおよそ1世紀以上にわたりヴァイキングの度重なる襲撃に苦しめられ続けてきたが、エドガー王の治世ではヴァイキングの襲撃が一度も起きなかった(950年半ばから980年代初頭までの小休止期間に当たる。)[6]。エドガー王の死後、イングランド王位は彼の息子兄弟2人(エドワードとエゼルレッド)によって争われた。結局、カンタベリー大司教ダンスタンが支持する長男エドワード派が争いを制してエドワードが王座に就いたが、即位から3年後にエドワード王が暗殺されたことで、弟エゼルレッドがエゼルレッド2世としてイングランド王に就いた。後世の年代記編者たちはエドガー王の治世を、外敵の侵攻や内乱などのない「黄金時代」であったと描写しており、特にエゼルレッド2世の波乱に満ちた治世と比較して称賛された。現代の歴史家たちはエドガー王の治世をアングロサクソン文化の絶頂期であったと見なしているが、その政治的遺産については意見が分かれており、死後の混乱を彼の強権的な支配に対する反動であると考える者もいる。
文献
歴史家アン・ウィリアムズはエドガー王について、非常に限られた情報しか残されていないことから『謎めいた人物』であると表現している[7]。また、バーバラ・ヨークはエドガー王の人格について『捉えがたい』ものだと述べている[8]。アングロサクソン年代記にはエドガー王の治世に関する記述がたった10か所しかなく、10世紀後半から11世紀初頭頃のその他の文献も、修道院改革運動の司教的指導者たちに対して主に関心を寄せている。また、ノルマンコンクエストの後に編纂された修道院年代記作者たちの著作にはさらに詳しい記述が残されているが、これらの資料はしばしば伝説的で信頼に欠けるものが多い。いくつかの出来事については詳細な記録が残されているものの、エドガー王の治世における出来事を年代順に叙述することは不可能である[7]。
背景
9世紀、アングロサクソン人の諸王国が立ち並んでいたイングランドは度重なるヴァイキングによる襲撃を受けるようになり、865年には大異教軍と呼ばれるヴァイキングの大軍による侵攻を受けた。878年までに、大異教軍はノーサンブリア王国・イーストアングリア王国・マーシア王国を制圧し、ウェセックス王国もヴァイキングの侵攻を前に風前の灯火であった。しかし同年、アルフレッド大王率いるウェセックス軍はエディントンの戦いでヴァイキングに対して大勝利を挙げ、ヴァイキングの侵略を押し返すことに成功した。883年までにウェセックス王国はマーシアの統治者エゼルレッドを従属させ、880年代から890年代にかけてウェセックス王国はアングロサクソン人の盟主としてウェセックス並びに西マーシアの領有権を確立させた。しかしイングランドのその他の地方は依然としてヴァイキングの支配下に置かれたままであった[9]。889年、アルフレッド大王が亡くなると彼の長男エドワードが王座に就き、エドワード王はアルフレッド大王の娘でマーシア領主エゼルレッドの妃であったエセルフリーダ(エゼルレッドの死後、マーシア領主の座を継承していた。)と共闘して910年代に東マーシア・イーストアングリア地方をヴァイキングから奪還した。918年、エセルフリーダが亡くなるとマーシア人貴族は彼女の娘エルフィンを2代目女性統治者として据え置いたが、エドワード王は彼女の身柄をウェセックスに移してマーシアをウェセックス王国に併合した[10]。
924年、エドワード王が亡くなると、王位は彼の長男アゼルスタンが継承した。アゼルスタンは当初はマーシアのみの王であった可能性もあるが、翌年には父エドワード王が統治していた全領土の王として君臨した[11]。939年10月にアゼルスタン王は亡くなり、王位はアゼルスタンの弟でエドガーの父親でもあるエドマンドが継承した。エドマンド王は即位後すぐに北イングランドを喪失したが、944年までには回復した。946年5月、エドマンド王は無法者に襲われていた自身の家令(en:Dish-bearers and butlers in Anglo-Saxon Englandを参照)を庇ったことが原因で殺害されてしまい、彼の息子たちであるエドウィ・エドガー兄弟がまだ幼かったこともあって、王位はエドマンド王の弟エドレッドが継承した[12]。エドマンドが即位した際と同様に、エドレッド王もまた、即位から間もなく、北部の都市ヨークがイングランド王を見限りヴァイキングの王族に忠誠を誓ったことでノーサンブリア南部を一時的に喪失した。しかし954年、ヨークの有力者たちがヴァイキングの王であるエイリーク血斧王を追放したことで、再びイングランド王の支配を受けるようになった[13]。
エドレッドはエドマンド王と非常に親しかったとされ、エドレッド王即位後も王国の要職はエドマンド王時代の者がそのまま継承したため、政権の連続性が高かった。この時要職に任命されていた人物の中には、エドレッド王の母であるイードギフやカンタベリー大司教オダ、ウィンチェスター司教エルフシゲ並びに、半王 (Half King)としても知られるイーストアングリア太守[注釈 1]アゼルスタンたちが含まれていた[15]。また、当時グランストンベリー修道院長だったダンスタンも重要な助言者として王を支えた。エドレッド王は病に侵され、晩年に至るまで悪化の一途をたどったが、治世最後の2年間に作成されて今も残されている勅許文書の多くはグランストンベリー修道院に関する機関によるものであり、そのほとんどは王による署名がなされておらず、病状が重く職務遂行が困難な場合にダンスタンが王の名の下に勅許を発行する権限が与えられていたことを示している[16]。エドレッド王は955年11月23日、30代前半という若さで亡くなった。王位は彼の甥である当時15歳前後だったエドウィに託された[17]。エドウィ王は9世紀初頭以来、差し迫った外敵侵攻の脅威に直面しなかった初の王であり、イングランドはその後980年までヴァイキングの襲撃を受けなかったという[18]。
若年期
エドガーはエドマンド王とその妃エルフギフの次男であり、エルフギフ王妃が亡くなった年(943年または944年)に誕生した。エルフギフは尼層のための寺院であるシャフツベリ修道院の有力な後援者であり、死後はこの修道院に埋葬され、列聖された。彼女の母親ウィンフリーダ(950年頃没)は宗教的誓願を立てた女性であり、同じくこの修道院の後援者であった[19]。幼いエドガーはイーストアングリア太守アゼルスタン半王の妃であるエルフウィンに育てられ[7]、958年にはその謝意として、彼女に対してハンティンドンシャー地方のオールド・ウェストンにおける10ハイド(400ヘクタール、もしくは1000エーカー)もの土地を下賜している[20]。アゼルスタン太守はエドガーの治世において支配的な勢力となった修道院改革派の強力な支援者であり、歴史家ロビン・フレミングはエドガー王子は幼少期のこういった環境に大いに感化されたのであろうとする見方を示している。
- 即ち、王子は父と最も親しい盟友の1人の下で育てられ、半王(アゼルスタン太守)自身の兄弟や息子たちと共に成長した。彼らの内5人はいずれかの時期にイングランド各地の太守(エアルドルマン)を務めた。半王は修道院改革派、特にダンスタンと親友であったため、エドガーは修道院改革の理想が支配的な雰囲気の中で成人した。エドガーが修道士たちに抱く愛情や、ベネディクト会修道制度を復興しようとする決意の一部は、若き日のこの家で培われたに違いない[21]。
エドガー・エドウィ兄弟は955年まで同時代の資料に名前が記録されておらず、その年の勅許状に初めて署名していることから、若いころは定期的に宮廷に出仕していなかったと考えられている[22]。エドレッド王は死の間際、アビントン=オン=テムズの在俗ミンスター(寺院)をエゼルウォルド(のちのウィンチェスター司教)に下賜し、エゼルウォルドはそれを修道院として改め、自身をその修道院長とした[23]。エドガーはこの修道院で、修道院改革派の1人であったエゼルウォルドからも教育を施され、その美徳への信念をさらに深めることとなった[24]。兄エドウィはエゼルウォルドの任命から間もなく王位についており、エドガーのエゼルウォルドの下での教育は王の許可を受けてのことだったと考えられており、エゼルウォルドとエドウィの関係は良好なものであったと推測される[25]。
エドウィの治世初期(955年 - 957年)での活動
955年11月23日、エドウィは叔父エドレッド王が亡くなるや否や、イングランド全土の王の座を継承した[22]。歴史家たちはしばしばエドウィ王について、無責任・無能と批判しており、その根拠として挙げられるのが、956年にエドウィ王が発行した異例な数の勅許状である[26]。エドウィ王はこの年、勅許状を通じて約60件もの土地の寄進を行ったことが記録されているが、これは全アングロサクソン時代における勅許状総数の5%をも占めるほどであり、12世紀以前のヨーロッパにおいて他にこれほどの数の勅許状を1年で発行した統治者は知られていない[27]。歴史家アン・ウィリアムズは、これほど多く勅許状が発行されたという事実はエドウィ王がそれほど多くの「支持」を得る必要に迫られていたことを示唆しているかもしれないと指摘しているが、その背景については確定的なことは不明である[28]。
エドウィが王位を継承したころの宮廷は有力派閥によって支配されており[29]、王は即位当初から王としての独自の行動力を示そうと決意していたように見受けられる[22]。歴史家Ben Snookは、「エドウィ王はエドガーとは異なり、はっきりと自立した人物であった。王位を得るや否や、彼は旧来の権力構造に終止符を打とうと行動を起こした。」という見方を示している[30]。一方、サイモン・ケインズは「エドウィとエドガーが本当に独自の遺志を貫き通せたのか、はたまた宮廷の既成勢力に操られていたのか、はっきりとしていない。」としている[31]。エドウィ王はエドレッド王の代から仕える有力者たちと対立し、特にダンスタンは王と対立した挙句、亡命を強いられる結果となっている[22]。またエドウィ王・エドガー王子の祖母イードギフは、エドマンド王・エドレッド王の治世で頻繁に勅許状に署名を残していたのに対してエドウィ王の治世ではたった1度しか署名をしておらず[32]、後に彼女は「自らの全財産を奪われた」との主張を残している[33]。一方、エドガー王子は955年から957年にかけて兄王の宮廷で目立った存在であったとされ、多くの勅許状に兄と共に名を連ね、そのうちの1つではRegulus(副王)として記されていることも確認されている[34]。
エドウィ王に対する反感・批判の一部は、特にダンスタンのような古参の重臣を排して、自身の友人たち、特にマーシア太守エルフヘレを優遇したことに起因していると考えられている[35]。エルフヘレと彼の親族たちは複数の王から近親者とみなされていたとされるが、その詳細な関係は不明である。かれらはエドウィ王と親しく、王はエルフヘレの兄エルフヘア(Ælfheah)を家令(discifer)に任じた。エルフヘアとその妃エルフスウィス(彼女もまたエドウィの親族であった)は王から多大な恩恵を受けた。エルフヘレは983年に亡くなるまでの間、世俗領主の中で筆頭的な存在であったとされ、956年にはマーシア太守に任命された[36]。エドウィ王によって任命された他の太守としては、955年後半にマーシア南部の太守に任じられたアゼルスタン・ロタ、956年にエセックス太守に任じられ、のちのモルドンの戦いで英雄と謳われたことで名高いビュルフトヌスなどが挙げられる[37]。また、エドウィ王はアゼルスタン半王の長男エゼルウォルドをイーストアングリア太守に任じている[22]。彼らはいずれも有力な家柄出身者であり、エドガーが即位したのちもそのまま留任された。歴史家フランク・ステントンは彼の著作オックスフォード・イングランド史シリーズの第2巻アングロサクソン・イングランド(サイモン・ケインズはこのシリーズを『威厳に満ち、圧倒的に権威ある歴史書』と評する[38]。)において、「少なくともエドウィ王について言えるのは、彼が有能な家臣たちの登用を認めたという点である。」の述べている[39]。
マーシア王 (957年 - 959年)
957年、イングランド王国はエドウィ、エドガー兄弟によって分割され、エドウィ王はテムズ川以南地域を、エドガーはマーシア王としてテムズ川以北を治めるという形式を取った。この分裂はエドウィ王に対するクーデターの結果だったのか、はたまた兄弟間での合意に基づく分割だったのかは明らかになっていない[22]。歴史家クリストファー・ルイスはこの分裂を「危険な程不安定な政府と深刻な危機に陥った宮廷を解決する策」と見做している[40]。一方、シーン・ミラーやローリー・ネイスミスはエドウィ王が古参派閥を排除して新たなる有力派閥を登用・推進しようという試みが失敗した結果であろうと考えている[41]。ダンスタンの最初の伝記作家(自身をBと称している。)は以下のように記している。
- エドウィ王は北の民(テムズ川以北の人々)に完全に見捨てられた。人々は彼が与えられた権力を軽率に扱ったことに対して軽蔑の念を抱いた。賢明で思慮深い者を無益な憎悪のもと排除し、代わりに己と同類な無知な者を登用した[42]。
これはエドウィと対立したダンスタンの支持者による見方である。著者であるBという人物はおそらくダンスタンと共に亡命していたとされ、亡命中にこの伝記を記したものと考えられている[43]。またこの頃、オダ大司教は血縁関係を理由にエドウィに対してエルフギフ王妃との離婚を強制したが、エドウィとエルフギフはその後も良い関係を継続した[44]。
アングロサクソン年代記の四つの版は全てこの王国分割について言及しているが、それらの全てはエドガーがマーシア王位を「継承」したと記しており、あたかも通常の、予想された出来事であるかのように記されている。アングロサクソン年代記のD版・F版[注釈 2]には、その時期は955年であったと記されている一方、B, C版には正確に957年と記されている[46]。この年代の違いは、おそらくエドレッド王の頃にすでに王国の分割が取り決められていたが、エドレッド王がエドガー・エドウィ兄弟が成人する以前に亡くなってしまったことで、弟エドガーが957年に成人する(当時の成人年齢は14歳である。)までその実行が延期されていたためであると考えられている。この頃の勅許状の署名状況から、諸侯たちは個人的な忠誠ではなく、自領の場所によりどちらの宮廷に仕えるか決めていたことが分かっている。テムズ川南部に自領や司教区を有する貴族や聖職者はエドウィ王の宮廷にとどまり、テムズ川以北にそれらが存在する者はエドガーに仕えた[47]。ケインズは「イングランドの統一は、950年代において、それ自体のために必ずしも望ましいと考えられていたわけではない。なにより、それはごく最近になって成立したものだったからだ」と述べている[48]。エドウィの王令文書に署名していた従士のほとんどは、分裂後も彼に従った[49]。歴史家フレデリック・ビッグスは、この分裂は教会の反対を押し切った、アングロサクソン初期の共同王制の復活だったと論じている[50]。またエゼルウォルド司教は、エドウィが「幼さゆえの無知によって自らの王国を分裂させ、その統一を壊してしまった」と非難した[51]。
エドウィは「イングランド王」として文書に署名しており、これは通常「マーシア王」であったエドガーよりも年長・上級王としての地位を示していた。エドガーはときに「ノーサンブリア王」や「ブリトン人の王」と記されることもあった[52][注釈 3]。貨幣についても、マーシアで発行されたものを含め、エドウィ王の死まで彼の名が刻まれていた[54]。同時代の年代記作者で、おそらくエドウィの義兄弟でもあったエゼルウェアドは、彼について「4年間途切れることなく王国を保持した」と記している[55]。兄弟の間に確執があった証拠はないが、ダンスタンをめぐっては意見が対立した。エドガーは亡命していたダンスタンを呼び戻し、まもなく彼をロンドンとウスターの司教に任じた[56]。また、分裂が起こったとき、イーストアングリア太守アゼルスタン(半王)が隠退した。おそらくエドガーが十分な年齢に達し、自ら政務を担えるようになったためである[48]。958年、エドガーはノッティンガムシャーのサットン(en:Sutton cum Lound)にある所領をヨーク大司教オスキテルに与えた。これはヴァイキング定住地であったこの地域を大司教に土地として与えることにより支配を強めようとする政策で、おそらくエドウィが開始した方針を継承したものだった[57]。
配偶者と子女
エドガーには3人の配偶者がいた。3人目と結婚したことはほとんどの歴史家が認めているが、最初の配偶者と結婚していたかどうか、また2人目と結婚していたかどうかは一部で疑問視されている[58]。ヨークは3回の正式な結婚と一時的な関係を認めるべきだと論じている[59]。最初の配偶者の名はノルマン・コンクエスト後に初めて記録されている。カンタベリーのオズベーンによれば、彼女は修道女でエドガーに誘惑されたとされるが、この記述は後代の年代記作者たちに否定され[60]、12世紀のウスターのジョンやマームズベリのウィリアムの記述、すなわち彼女はオルドメア(Ordmær)の娘であるエセルフレッド・エネダであった、という説が一般に受け入れられている[61]。アン・ウィリアムズは彼女を妻と見なしているが、シリル・ハートはエドワード殉教王の正統性に疑問を呈している[62]。年代記作者たちはオルドメアを太守と記したが、10世紀の残存する勅許文書にその名で署名した者はいない。『リーベル・エリエンシス』によれば、オルドメアとその妻エアルデ(Ealde)は有力太守アゼルスタン半王と土地を交換しており、エドガーがアゼルスタン太守の養子だった時にエセルフレッドと出会った可能性がある[63]。彼女は960年頃に死去したとみられる[59]。歴史家ニコラス・ブルックスは、ダンスタンがその息子の王位継承を支持したため、エドガーはエセルフレッドと結婚していたに違いないと主張している。なぜなら彼は非嫡出子を支持しなかったはずだからである[64]。
エドガーの2番目の配偶者はウルフスリス・オブ・ウィルトンと呼ばれる女性であった。11世紀後期のベネディクト会修道士ゴスセリンによれば、エドガーはその従妹で後に列聖されたウルフヒルド・オブ・バーキングの結婚を望んだが、彼女は父ウルフヘルム(Wulfhelm)によりウィルトン修道院に送られ教育を受けていた。ゴスセリンはウルフヒルドの伝記で、彼女が修道女になることを望み、エドガーのしつこい求婚を拒んだと記した。そしてエドガーは代わりに同じ修道院で教育を受けていたウルフスリスと結婚したとされる[65]。2人の間には娘エディス・オブ・ウィルトンが生まれた。ウィリアムズは彼らが結婚していたかは不確かだとするが[7]、ヨークはゴスセリンの「解き難い誓いによって結ばれた」という記述や、エディスの印章に「王の妹」と刻まれている事実を根拠に、彼女の正統性が認められていたと主張する。964年までにウルフスリスは娘とともに修道院に戻り修道女となり、エドガーは再婚可能となった[66]。エドガーはエディスの教育のためにロタリンギアの学者ラドボド(Radbod of Rheims)や画家ベナ(Benna of Trier)を雇った[67]。アングロ=サクソンの慣習では配偶者が修道生活に入った場合再婚が認められたが、厳格な教会法の解釈では配偶者が生存中の再婚は禁止されていたため、エドガーの3度目の結婚は政治的に問題を生じ得た[68]。ウルフスリスとエディスは後に聖人と見なされたが、ウルフスリスの崇敬は広まらず、エディスの方が著名な聖人となり、ゴスセリンによる伝記の題材ともなった[66]。
マームズベリのウィリアムは、のちのデンマーク王クヌートがイングランドの聖人たちに敬意を抱かず、聖霊降臨祭の時にウィルトンでエディスを嘲笑し「エドガー王の娘であるエディスの聖性など信じられぬ、エドガーは好色で暴君であり王というよりも欲望の奴隷だった」と語ったと記した。さらにクヌートは彼女の墓を開けさせ、彼女が自らの聖性を証明するよう迫ったが、彼女が反撃を予告したため恐怖に陥り屈服したという[69]。ヨークは、この逸話は「父エドガーの不道徳な評判を強調するために利用された」と指摘している[70]。ヨークはまた、修道院を王が、女子修道院を王妃が庇護するという『レグラリス・コンコルディア』の規定[注釈 4]を、「修道女に対するエドガーの性的関心への風刺」と見なし、当時の人々にとっては王の行動として特に異常ではなかったと述べている[71]。ウィリアムズは「ベネディクト会改革への王の献身を高潔な私生活の証拠と解釈すべきではない」としている[7]。
エドガーの3番目の配偶者はエルフスリスであり、彼女はかつてエゼルワルド太守(Æthelwold)の未亡人であった。太守が962年に死去したのち、彼女は964年にエドガーと結婚した。2人の間には若くして死去した息子エドマンドと、「無策王」と呼ばれるエゼルレッドがいた[72]。966年、彼女はウィンチェスターのニューミンスター勅許状に「国王の嫡出の妻」として署名し、長男エドマンドも「嫡出の息子」として署名した。一方、エドワードは「同じ王によって生まれた」とのみ記され、これは国王が自らの指示でエドワードを継承から排除しようとしたのか、あるいはウィンチェスター司教エゼルウォルドがその友人であったエルフスリスを擁護するために行ったのかは不明である。973年に彼女は王妃として戴冠され、その後はregina(Queenの意味)として勅許状に署名した。これはウェセックス王家において、王妃が継続的にその地位を明示した最初の例であった[73]。これは大きな地位の変化であり、それ以前の王の配偶者は単に「王の妻」と記されるにすぎなかったのに対し、彼女は正式に「王妃」の地位を持ったのである[74]。
先の2人の配偶者とは異なり、エルフスリスは政治的に大きな影響力を持ち、エドガーは彼女の父オルドガーをデヴォンの太守に任じた[75]。ウィリアムズは彼女を「侮れぬ存在」と評し、ポーリン・スタッフォードは彼女を「10世紀で最も重要な王妃の一人」と評している[76]。両者とも他の王族女性に対して優位に立ち、また王妃の地位にある時よりもエドガー王の死後、また息子エゼルレッドが幼いころに王太后の立場に立った時に権力が最高潮に達した[77]。彼女は後に、エドワード殉教王の殺害を自分の息子を王にするために企てた陰謀であると非難されることになった[72]。

イングランド王
946年、エドマンド王は無法者に襲撃された執事長(アングロサクソン時代における王国での役職等についてはen:Dish-bearers and butlers in Anglo-Saxon Englandを参照。)を守ろうとして殺され、幼い息子を残してこの世を去った。王位は幼い息子たちではなく弟のエドレッドに継承され、エドレッド王は955年に亡くなるまで王国を統べた。エドレッド王の死後、エドマンド1世の長男・エドガーの兄であるエドウィが王位を継承し、957年にはエドウィ・エドガー兄弟が王国を南北に分割した上で、テムズ川以北をエドウィ王が、以南をエドガーが統治するという体制を整えた。歴史家たちの間ではこの分割統治体制が、エドガーが引き起こしたエドウィ王に対する反乱の結果として生まれたものなのか、前々から取り決められていたことなのか、いまだに議論が続いている。
統治
959年10月1日、エドウィ王が亡くなったことを受けて、エドガーはイングランド全土の王となり、エドガーの先任の家庭教師であったエゼルウォルドは宮廷で最も権力を握る人物となった。エゼルウォルドは960年から963年までの間をエドガー王に個人的な助言者として仕えていたとされ、963年に彼は王からウィンチェスター司教に任じられた[79]。また、エドガー王の治世初期にカンタベリー大司教に任じられたダンスタンは宮廷に熱心に出仕していたとされ[80]、歴史家アラン・サッカーは「エゼルウォルドは修道院社会に根を張った活動を行っていたのに対して、ダンスタンは宮廷を中心とする活動に身を尽くしていた。」との見方を示している[81]。また、970年代初頭の主要な世俗貴族としては、イーストアングリア太守エゼルウィン(エゼルウォルドの兄でかつ彼の後継者)、マーシア太守エルフヘレ、ヨーク太守オスラック、そしてエセックス太守ビュルフトヌスが挙げられる[82]。
960年代から970年代初頭の勅許文書は互いに似通っており、この時期に政治的な変化があったことは示されていない。しかし960年代後半からは、北部の有力者たちがより定期的に勅許状に名を連ねるようになった[82]。954年、エドレッド王は、ノーサンブリア王エイリーク・ハーラルソンを追放した後、ノーサンブリア北部のバンバラを支配していたオスルフ1世をノーサンブリア全域の太守に任じた。オスルフは王の支援に依存せず自立した権力を持っていたが、960年代に死去した。するとエドガー王はノーサンブリアを再び南北に分割し、南部(ヨーク周辺)にはオスラックを太守として任命し、自らの統制を強めた。しかし北部のバンバラでは、誰が権力を握るかを王が決めることはできず、統治は王の手の届かないまま残された[83]。
王が若くして死ぬことが多かったこの時代にあって、各地域の太守たちは王国の安定を支えるうえで重要な存在であった[84]。しかしイーストアングリアのエゼルウィン一族とマーシアのエルフヘレ一族は揺るぎない地位を築き、その対立は王国の安定を脅かす要因となった。エドガー王は彼らを抑え込むことに成功したが、この緊張関係は彼の死後に公然たる敵対行為へと発展した[85]。970年以降、テムズ川以南の地域には太守が置かれなくなったが、これはエドガーがこれらの地域を強力な太守ではなく、より下位の王室官僚に委任することを選んだからかもしれない。従来太守が担っていた職務は地方行政官に委ねられた可能性がある。その結果、エドガーの統治は地域一様ではなくなり、地域ごとに異なる統治方法がとられることとなった[86]。この南部地域での太守不在の状態は、エドガーの死後に3人の太守が新たに任命されることで解消された[87]。
この頃のイングランド王国は定まった首都が存在せず、国王と宮廷は1年に4,5回程のペースで王領の邸宅から各地の邸宅へと巡回しつつ統治を行うスタイルであった[88]。ウスターのジョンによれば、エドガー王は毎年冬と春に王国を巡回し、自ら公布した法令が遵守されているか、また貧しい人々が権力者から不当に扱われていないかを調べたという[89]。歴史家リチャード・ハスクロフトはこの記録を「やや美化されているかもしれない」と評している[90]。共同体による犯罪に対しては「Harrying」(地域を徹底的に荒らすこと)が標準的な処罰とされており、974年、エドガーはタネット島の住民がヨークから来た商人を襲ったとして、彼らから財産を没収した上で一部を処刑するよう命じたという[91]。土地の没収は、王にとっては恩賞を与える機会や、処罰を免除する代価を受け取る機会ともなった。ある事例では、エドガーは100マンクス[注釈 5]の金と引き換えに没収を取り消し、また別の事例では120マンクスで複数の没収地を返還している[93]。
勅許状

930年代以降、勅許文書は王室書記局によって作成されていたが、この体制は957年から959年の王国分裂期を経てもそのまま存続したわけではなかったと考えられている。959年にエドガーが王位を継承した際、彼は兄エドウィから引き継いだ体制をそのまま引き継いで運用せず、マーシア王として在位していた時に彼自身がすでに運用していた書記局体制をそのまま保持したようである[95]。エドガーの勅許文書は、技量的には十分だが形式的で模倣的なラテン語で書かれており、かなり以前の勅許文書の文体に依拠していた。その文体は先行する王たちのものより多様であり、歴史家スヌークは、これは中央統制の衰退を示すのではなく、むしろアングロ・サクソン官僚機構の洗練が進んだことを示していると論じている。序文の書きぶりや、勅許の規定に背いた者に科す制裁条項には大きな多様性が見られる一方で、政治的・法的な手続きに関しては安定した伝統に従っていた[96]。
勅許文書は複数のグループに分けられる。大部分は「標準的な書式に属する文書群」に属し、その中には「エドガーA」と呼ばれる書記が作成したものも含まれている[97]。彼の活動拠点については学者の間で意見が分かれており、1930年代の歴史家リヒャルト・ドレーゲライトや1960年代の歴史家ピエール・シャプレはこの書記をエセルウォルドの改革下にあったアビンドン修道院に所属する人物とみなし、ひょっとするとエセルウォルド自身であった可能性も指摘した。これに対してケインズは1980年に、彼はおそらく王の書記団の聖職者であろうと論じ、2000年にはスーザン・ケリーがアビンドン修道院説を擁護した[98]。エドガーAは、エドガーがマーシア王であった時期に起草を始め、960年代初頭の勅許文書のかなりの割合を彼が作成した。963年に活動をやめているが、その後の治世でも彼の文体を模倣した書記による勅許文書が残っている[99]。別のグループはダンスタンに関連づけられる「ダンスタンB勅許文書」と呼ばれるもので、951年から975年までの間に作成された。ただしエドウィ王の治世中は中断している。エドガーがまだマーシア王にすぎなかった時期のものは、彼自身が署名してはいなかった[100]。さらに、ミッドランズ地方や西部地方の統治機関による勅許文書もあり、場合によっては受益者自身が起草に重要な役割を果たした可能性もある[101]。
勅許文書には多くの偽造文書が存在し、本物と区別するのが困難であるため、史料としては扱いにくい[102]。エドガー王時代の勅許文書は約160通が現存しており、このうち10通は957年から959年、すなわち彼がマーシア王だった時期のものにあたる。マーシア王時代の大部分と、イングランド王として発給した約100通は本物とみなされている。その期間の中でも発行数が多いのは961年〜963年と968年である。これらは主として宗教施設や個人に対する一般的な土地付与文書であるが、ウィンチェスターのニューミンスター修道院に特権を与えるようなより複雑な内容の文書も存在する[103][注釈 6]。勅許文書の大半は後世の写しによってのみ伝わっているが、16通は現物の可能性もある一枚紙として残っている[105]。一部の勅許文書にはエドガーの治世年が記されているが、その起算点は一定せず、959年、960年、973年から始まるものもあるが、最も多いのは957年を基準とするものである。エドガーは初代イングランド王アゼルスタンと同様、ある勅許文書では「イングランド王」、別のものでは「ブリテン王」と称号を使い分けており、ケインズは「エドガーの治世における一貫した用法は、930年代にエセルスタンによって創り出された国家体制を力強く再確認するものにほかならない」と評している[106]。
法律
エドガーが制定したとされる法典はこれまで4つ存在するとされてきたが、実際は2つである。「ハンドレッド条例(Hundred Ordinance)」はかつて歴史家たちによって「I Edgar(第一法典)」と呼ばれていたが、誰がこれを発布したかは記されておらず、布告者がより早い時代の王にまでさかのぼる可能性がある。IIエドガー(第二法典)とIIIエドガー(第三法典)は、ひとつの規定集を宗教的部分と世俗的部分に分けたものであり、アンドーバー法典(Andover Code)として知られている。したがってIVエドガー(第四法典)が二つ目の法典にあたる[107]。エドガーは法の内容そのものよりも、むしろその運用に関心を持っていた[82]。彼の主要な関心は、既存の法律が適切に執行されることを保証することにあった。法典は王の一方的な布告ではなく、王の顧問たちの助言を受けて公布された[108]。
法制史家パトリック・ウォーマルドは、アンドーバー法典を「印象的で合理的」と評している[109]。IIエドガー(第二法典)は宗教的事項、特に教会への貢納を扱っている。ここで初めて、十分の一税を納めなかった場合の具体的な罰則が規定され、またローマ教皇に納めるべき税金(en:Romescotを参照。)を納めなかった者はそれをローマへ直接持参しなければならないとされた(もっとも、これは実務的というより理念的な罰則であった)[110]。IIIエドガー(第三法典)は、司法を利用しやすくすること、不当な判決を防ぐこと、度量衡の統一、そして「国王の支配領域全域で単一の貨幣が流通すること」を扱っている[7]。原告は国王に訴える前に他の手段を尽くさなければならず、判決は公正であり、刑罰は適切でなければならないと取り決められた[111]。また裁判は定期的に開かれるべきとされ、すべての者は法的義務を守らせるために保証人を立てることを求められた[112]。秩序の維持には世俗権力と宗教権力の協力が必要とされたが、IIIエドガーの制定によってはじめて、太守と司教が共同で法廷の裁きを行うことが義務づけられた[113]。
IVエドガー法典(第四法典)は、アンドーヴァー法典よりも冗長で、それ以前のどの法典よりも修辞的であった[114]。また、この法典で特に歴史家たちの関心を集めたのは、この法典がかつてのヨールヴィーク(かつてヴァイキングが治めていた北イングランドの王国)独自の慣習を認め、「彼らが最善と定める良き法を持つべし」と規定している点である[7]。この法典には、デーンロー北部で「ハンドレッド」に相当する行政区画を指す呼称 ワペンテイクが初めて登場する[115]。もっとも、デーンローに独自の慣習を認める譲歩には例外があり、盗品売買を困難にする規定が設けられた。すなわち、各都市、ハンドレッド、ワペンテイクごとに少なくとも12人の宣誓証人を任じ、すべての取引はそのうち2人か3人の立ち会いによって行わなければならないとされた[116]。この時期から、シャイア(州)、ハンドレッド、ワペンテイクといった行政区画が、王が民衆を統制する上で重要な役割を果たし始めた[117]。IVエドガー法典(第四法典)は「我が支配領域のあらゆる地方において、イングランド人、デーン人、ブリトン人を問わず、すべての国民に」適応されており、エドガーの臣民が三つの異なる政治共同体から構成されていたことを示している[118]。さらにエドガーは、この法典の写しを多数作らせ、エルフヘレ太守とエゼルウィン太守に送付し、富める者にも貧しい者にも広く知らしめるよう命じた[119]。
10世紀後半、エドガーの死の頃に活動した聖人伝作者ランドフリズは次のように記した。
- 栄光あるエドガー王の命により、一つの法がイングランド全土に公布された。それはあらゆる犯罪を防ぐ抑止力として機能するものであった… すなわち、もし盗賊や追いはぎが国のどこであれ見つかったならば、彼は徹底的に拷問され、目を抉られ、手を切り落とされ、耳を裂かれ、鼻孔を切り開かれ、足を切断され、最後には頭皮と髪を剥がされた状態で野に打ち捨てられ、ほとんどすべての肢体を失った屍として夜の獣や鳥や犬に食い尽くされるのであった[120]。
エドガーの現存する法典にこうした身体切断刑が規定されているわけではないが、IVエドガーには罰則一覧への言及があり、それは現存していない。クヌート王の法典には同様の刑罰が規定されており、その作者ヨーク大司教ウルフスタンは、クヌートの立法はエドガーの法律に基づくと述べている。ウォーマルドはこれらの刑罰を「おぞましい(ghastly)」と評し[121]、ケインズは「エドガーが『最強の王』と称えられたのも不思議ではないが、もし我々が彼のもたらした平和を称賛するならば、その平和がいかなる強制手段によって維持されたかを忘れるべきではない」と述べている[122]。
のちのクヌート王はエドガーの立法を範とし、1020年の布告で「すべからくエドガーの法を厳守せよ」と命じた[123]。『アングロサクソン年代記 D版』には1018年、デーン人とイングランド人が「エドガーの法」に従って協定を結んだと記されている[124]。1019/20年にクヌートが臣下に宛てた書簡でも、オックスフォードで合意された法典を「エドガーの法」と呼び、人々に遵守を促している。ウォーマルドの見解では、クヌートは自らの王権が「オックスフォード協定によるエドガー法の遵守」に基づいていると考えたようである。しかしその法典はエドガーの立法とはほとんど似ておらず、エドガーへの言及は実際的な参照ではなく、「尊敬される立法者」としての象徴的意味だったとみられる。エドガーの立法はノルマン征服後も高く評価され続け[125]、12世紀の歴史家イードマーは「最も栄光ある王エドガーの聖なる法」に言及しているが、彼が実際にその法典を知っていた証拠はない[126]。
硬貨

後期アングロサクソン時代のイングランドで一般的に使用されていた唯一の貨幣はペニー銀貨であったが[128]、少数のハーフペニーも鋳造されており、エドガーの時代のものとして9点のハーフペニー硬貨が知られている[129]。エドガーの時代の貨幣は二期に分けられる。すなわち、直前の王たちの多様な貨幣デザインを概ね踏襲した改革前の時期のものと、治世末期に行われた大規模な貨幣改革後の時期のものである[130]。
エドマンド王とエドレッド王の治世には流通硬貨の地域ごとの差異が拡大し、とりわけノーサンブリアではイングランドとヴァイキングの支配が交替する中で貨幣も揺れ動いた。しかし954年にイングランド王国が北部の恒久的に統治に成功したことで、アゼルスタン王の治世のような統一貨幣へと徐々に戻っていった[131]。エドガーの改革前の貨幣のデザインには、エドウィ王の治世から続いたHorizontal型があり、アゼルスタン期に導入されたものの20年間余り流通していなかったCircumscription Cross型がエドガー期に一般化した[132][注釈 7]。またBust Crowned型(冠を戴いた王の横顔)も彼の時代に大幅に普及した。エドガーの初期貨幣は、ナイスミスによれば「改革貨幣への基本的変革に向かう重要な一歩」であった。アゼルスタンの治世とエドガーの改革前貨幣の時代だけは、造幣地名が記されることが多かったが、それでも無記載の例は少なくない。エドガー期の改革前貨幣には30の造幣都市名が確認され、さらに6都市が学者によって推定されている[134]。アルフレッド王とエドワード長兄王の治世以来、貨幣の品質は徐々に低下しており、エドガーの改革までその低下は続いた[135]。10世紀前半の大部分においては銀含有率90%以上の高品位が維持されたが、950年代には品位の劣る貨幣が一部鋳造され、エドガーの改革前期にはその割合が顕著に増加した[136]。コインの平均重量もエドワード長兄王時代以降徐々に低下し、エドガー期にも低下し続けた[137]。
エドガーの硬貨改革で誕生した新たな硬貨には全国に統一されたデザインが導入された[130]。それはアゼルスタン期の貨幣をモデルとし、部分的に過去15年の動きを踏まえたものであった[138]。銀含有率は約96%と高く、当時の他のヨーロッパ諸国のそれと比べても群を抜くレベルであった[139]。重量に関しては、増加はしたものの地域差は残る結果となった[130]。すべての造幣所が同一デザインを使用し、表面には内円に左向きの王の胸像と外周に「+EADGAR REX ANGLOR[UM]」と王名、裏面には中央に小十字、その周囲に造幣人名と造幣都市名を刻んだ。このデザイン自体は新規ではなく、アゼルスタンのBust Crowned型に非常によく似ていたが、全国的な完全統一は新しい試みであった。この改革についての記録は13世紀になって初めて確認されているが、年代記作者ロジャー・オブ・ウェンドーヴァーが唯一言及している。実際にいつ改革が導入されたかは不明だが、治世末期であったことは確かである[140]。エドガーの死後、貨幣の品位は再び地域的に不均一になった[139]。
貨幣の統一はエドガーが一貫して重視した「均一性」を反映しており[122]、これを実現できたこと自体が王権の強さを示している[141]。これは治世末期における、世俗と宗教の両面から王国をまとめようとする取り組みの一環であった。全国およそ40の造幣所が初めて同一デザインの貨幣を鋳造するようになり[142]、この制度は150年以上続いた[143]。歴史家レヴィ・ローチはこの改革を「後期アングロサクソン王権の最大の成果の一つ」と評している[144]。
信仰

958年、当時マーシア王であったエドガーは、チェスターの聖ウェルブルフ修道院に土地を与えている。これは改革が施されていない共同体で世俗聖職者の館であったため、後年のエドガーの治世では王からの庇護を受けることはまずなかったであろう。ベネディクト会の改革者たちは後になって、エドガーの即位を自らの改革運動の勝利と見なしたが、この寄進は当時のエドガーやその側近にとって「寄進対象が修道院であるかどうか」はまだ決定的に重要な要素ではなかったことを示している[146]。
先代の王たちも改革を支援していたが、エドガーが即位した時点でベネディクト会修道院はわずか二つしか存在せず[147]、彼の後援がベネディクト会の改革運動が広く成功する鍵となった[148]。歴史家スタントンは、彼の即位によって世俗人事に大きな変化がもたらされることはなかったが、教会には重大な変化がもたらされたと述べ、「この時期の主要な成果であるイングランド修道制の再建において、エドガー王の熱心な支援が決定的要因であったことは疑いない」と評している[149]。エドガーは運動の三人の主要人物――ダンスタン、オズワルド、エゼルウォルド――皆を厚遇した[150]。958年にオダが死去し、エドウィ王が後任のカンタベリー大司教としてエルフシゲ(Ælfsige)を選出したが、ローマ教皇からパリウムを受け取るためアルプスを越える途上で凍死してしまった。エドウィ王は次の後継者としてウェルズ司教ブリュトヘルムを選任したが、イングランド王を継承したエドガー王が「規律維持には穏やかすぎる」との理由でブリュトヘルムを解任し、代わりにダンスタンを大司教に任命した[151]。オズワルドは962年にウスター司教、971年にはヨーク大司教となったが、ウスター司教の地位は大司教就任後も保持し続けた[7]。
エドガー王の治世初期には、第三の修道院改革運動の指導者であるエゼルウォルドは修道院長の立場で勅許文書に署名する唯一の聖職者であり、彼の特別な地位を示している[152]。彼は結婚が許された世俗聖職者(しばしばカノンと呼ばれる)を厳しく批判した[153]。963年にウィンチェスター司教に任じられると、彼はウィンチェスターのニューミンスターを修道士だけの共同体に改めた。エドガーは教皇の権威を取り付け、更には世俗聖職者を強制的に追放するため王の役人に率いられた武装集団を派遣した[154]。966年、彼は新しい共同体に特権を与える壮麗な勅許状を発し(上図を参照)、そこではカノン追放による教会の浄化が記され、エドガーは「キリストの代理人(vicarius christi)」と称された[155]。 王が介入した主要な理由の一つは、カノンの罪深さゆえに彼らの祈りは王にとって無価値であると考えられていたことであった[156]。
エドガーとエルフスリス王妃は、エゼルウォルドにスドボーンの所領を与え、その条件として彼にラテン語の『聖ベネディクトの戒律』を英語へ翻訳させて一般信徒への信仰教育を支援するよう求め、この翻訳は現存している[157]。『修道共同体協約(Regularis Concordia)』[注釈 8] はイングランド全土の修道院の規則を定めた文書であった。これはエドガーが全国統一の修道規則を定めるよう命じてウィンチェスターで開かせたシノドの結果として作成されたもので、彼の統一と一貫性への強い願望を示している。彼は司教・修道院長・女子修道院長に対し「修道生活に関して一つ心となれ…異なる仕方で一つの戒律と一つの国の慣習を守ることが、彼らの聖なる生活を不評にさらすことのないように」と求めた[159]。この協約をもって、すべての修道院では王と王妃のために日々複数回の詩篇朗誦を義務づけられ、また修道院長の選任には国王の同意を必要とした[160]。文書の成立時期は973年頃で、おそらく同年5月11日のバースでの戴冠式後とみられる[注釈 9][161]。
大陸の修道院改革者たちは世俗聖職者の存在を認め、ダンスタンやオズワルドもそれに賛同していたため、彼らは自らの大聖堂共同体からカノンを追放することはなかった。エゼルウォルドはより過激で、『エドガー王の修道院設立』と呼ばれる文書で以下のように記している。
- エドガー王はウェセックス王国のみならず、マーシアの地においても、人々の穢れをことごとく取り除いて聖所を清め、罪に溺れたカノンを追放した。そして王国の主要な地に修道士を配置し、救世主キリストへの栄光の奉仕を行わせた。またある場所には修道女を設け、彼女らを王妃エルフスリスに託し、あらゆる必要に際して王女の支援を受けられるようにした[162]。
改革者たちは個人としては禁欲的であったが、彼らの典礼や祈祷は大陸風にますます華美となり、必要な建物や聖具のために修道院の土地と富を増やすべく尽力した[163]。彼らはエドガーや王の役人だけでなく、他の俗人からも物的・財的支援を受けた[164]。また運動の指導者たちは裕福な貴族でもあり、自らの資力を投入した[165]。エゼルウォルドはエドワード長兄王の頃に下賜されたウィンチェスターのオールド・ミンスター(タウトン(en:Tautonの大規模な所領に関連した)の特権更新のため、エドガーに金200マンクスと5ポンド相当の銀杯を支払い、さらにエルフスリス王妃に「彼の正義の使命への助力」に対する謝礼として50マンクスを贈った[166]。彼は自身の教区内の修道院の土地請求を法廷で執拗に追及し、エドガーもしばしばそれを支援した[167]。彼の死後、土地所有者たちは時には暴力を用いてまでして修道院に奪われた所領を取り戻そうとした。最大の有力者でさえ改革者の要求を免れず、エゼルウィンはハットフィールドの40ハイドの所領を取り戻す訴訟を成功させ、「エドガーが自分と兄弟たちに対してその所領をエゼルウォルドに譲るよう強いた」と訴えている[168]。エドガー死後の反修道院運動は、改革者たちが王の後援にいかに依存していたかを示している[169]。しかし反対派の著作は残っておらず、彼らがエドガーをどう見ていたかは分からない[170]。
エドガーの改革支援は、ベネディクト会著述家から激しく称賛され、ブリュトフェルスやウルフスタンといった人物の990年代の著作にその旨が記されている[171]。改革者たちはエドガーをほぼ神権的とも言える存在として記し、『修道共同体協約』の中では彼を「善き羊飼い」に比している[172]。当時の神学者エンシャムのエルフリックもまたエドガーを称賛し、王権を神から授けられたものとしてそれに服従すべきだと説いた[173]。歴史家キャサリン・カークオフは「治世初期より、エドガーは神から直接権威を授かった有能で強力なバシレウスとして描かれていた」と述べている[174]。この改革はヨーロッパ全体に広がった運動のイングランド版であった[175]。カロリング朝の終焉後、大陸の修道院は普遍的に『聖ベネディクトの戒律』に従っていたが、ウォーマルドは『修道制の一様性を政治的な原則としたのは、カロリング朝以後のヨーロッパではイングランドだけであった』と述べている[176]。
他の王と同様に、エドガーは教会への寄進にも熱心であった。970年、エゼルウォルドはエリー修道院に存在した世俗聖職者の共同体を修道士の館へと改め、エドガーは金銀鍍金の十字架や黄金像・宝石をちりばめた福音書、金で飾った外套などの豪華な品々を寄進した[177]。彼は967年に創設(あるいは再建)されたベネディクト会女子修道院のロムジー修道院の主要な庇護者でもあり、息子エドマンドはそこで葬られた[178]。エドガーはまた、聖スウィズンの遺体が安置されたウィンチェスターのオールド・ミンスターを支援した。971年、彼とエゼルウォルドの後援により、遺体は境内の墓から聖堂内に移され、これが新たな聖人崇拝の始まりとなった[179]。974年頃には二度目の翻訳が行われ、スウィズンの聖遺物は、三マイルの道のりを裸足の行列で運ばれ、エドガーの命によって作られた金・銀・ルビーの華麗な聖遺物容器に納められた[180]。彼はまたエゼルウォルドのアビンドン修道院の最大の後援者となった[181]。
改革後のベネディクト会修道院は主にウェセックスとマーシアの一部に限られており、数の上では多くの世俗修道院に大きく劣ったが、経済的にははるかに豊かであった。改革者たちはエドガーの治世をイングランド教会を根本的に変革した黄金時代と描いたが、歴史家ジョン・ブレアはこれに対して懐疑的であり、「表面的な主張とは裏腹に、エドガーの時代の宗教文化は、突き詰めればアゼルスタンやエドマンドの時代と大差なかった可能性も考えられる。」と述べている[182]。
学問と芸術
871年にアルフレッド大王が王位についた頃のイングランドでは学問は著しく衰退しており、ラテン語の知識もきわめて乏しかった[183]。そこで大王は学問復興の推進を始め、その最盛期はエドガーの治世にもたらされた[184]。ラピッジは、彼の治世が「イングランド文学史における決定的な転換点を画している」と述べている[185]。オズワルド自身のラテン語作品は知られていないが、エセルヴォルドとダンスタンは卓越した学者であった[186]。エゼルウォルド司教による『聖ベネディクトの戒律』(Regula S. Benedicti)の翻訳は最高水準のものであり[187]、彼の「ニューミンスター勅許文書」は、ベネディクト会改革運動の輝かしい博識を示し、エドガー王と改革を讃えるために、華麗なヘルメヌーティック・ラテン語で記された[188]。エゼルウォルドの制作した古英語作品の中には、非常に贅沢で高価に装飾されたものがあり、それらは若い修道志願者(en:oblate)への教育用ではなく、貴族や王族を対象として製作された可能性が高い[189]。エドガーの治世にはラテン文学作品も大幅に増加しており、そのすべてがエゼルウォルドの活動拠点であるウィンチェスターと結びついていたようである。その多くは詩であり、しばしば多数のギリシャ語的要素(grecisms)を含んでいた[190]。三人の主要な改革者たちは大陸の学問から強い影響を受け、フルーリー修道院から来たランドフリッドのような博識な外国人聖職者を客人として迎え入れた[191]。美術史家デイヴィッド・ウィルソンは、エドガーの治世が「イングランドにおいてこれまでに見られた絵画や彫刻の最高水準の業績を生み出した」と評している[192]。『聖エゼルウォルドの祈祷書』はイングランド美術の最高傑作の一つとされる[193]。またエドガーの父の異母姉妹の内の数人は大陸諸王国の王族と結婚しており、こうした縁故によってラドボドのような外国人学者や、王のために金属工芸品を制作し、ウィルトン教会の天井を装飾したベンナのような画家・金細工師をイングランドに招くことができた[194]。
戦争と外交
歴史家ピーター・レックスはエドガーの伝記において、彼の治世中に国内外からほとんど挑戦を受けることがなかった点で際立っていたと述べている[195]。エドガーの治世にはイングランドに対するヴァイキングの襲撃は記録されていないが、太守や周辺諸王国による戦闘はいくつか発生した。966年、グンナルの子ソレッド[注釈 10] がウェストモーランドを荒らしたというが、これはストラスクライド王国の南方侵略に対するイングランド側の抵抗の一環だった可能性がある。また970年代初頭には、スコットランド王ケネス2世がノーサンブリアに侵攻した[197]。960年代末には北ウェールズのグウィネズ王国で王族間の不和が生じ、967年にマーシア太守エルフヘレの指揮するイングランド軍が同国を荒廃させた。970年代初頭には、アングルシー島が二度にわたりヴァイキングの攻撃を受けた[198]。また、『アングロ・サクソン年代記』はエドガーの海軍の強大さを誇る記述を残しており、D写本とE写本は「多くの王がエドガーを称えた」と述べた後に「どれほど誇り高い艦隊も、どれほど強大な軍勢も、エドガー王が御座す間にイングランドで略奪を得ることはできなかった。」と記している[199]。後世の年代記作者はさらに誇張を含んだ記録を残しており、例えばウスターのジョンは、エドガーが3,600隻の艦隊を持ち、毎年夏にブリテン島を周航したと記している。しかし、ある程度の誇張はあったにしろ、艦隊組織の存在は息子エゼルレッドの治世で確証されており、エドガー自身も実際に相当規模の艦隊を有していたと考えられるが、それは後の体制の基盤となった[200]。
アングロサクソン年代記のD・E写本に収録された詩はエドガーを讃える一方で、こう続けている。「しかし彼はただ一つ、大きな過ちを犯した。すなわち、彼は異国の悪しき風習を愛しすぎ、この地に異教徒の慣習を強く持ち込み、異国人を呼び寄せ、この国に有害な者を誘い入れたのである[201]。」 これはエドガーがヴァイキングの傭兵や彼らの艦隊を雇ったことを指すと考えられる。これはアルフレッドやおそらくアゼルスタンも用いた手段であり、その後エゼルレッドも同様に行った[202]。
972/973年、エドガーは神聖ローマ皇帝オットー大帝のもとへ使節を派遣した。ビュルフスフェルトによれば、
- エドガーはエスクウィグ修道院長と彼の従士ウルフマールを通じて、皇帝に驚くべき贈り物を送った。彼らはさらに驚くべき贈り物を持ち帰り、確固たる平和の条約を結ぶことになった。王は王にふさわしく寛大であり、その豊かな寛大さゆえに他国の王たちは彼を大いに讃えた。そしてまた、敵に対しては獰猛な獅子の如く怒りを示したため、周辺の王や諸侯は彼を恐れた[203]。
973年の出来事
ナイスミス(Rory Naismith)は973年をイングランド王国にとっての驚異の年(annus mirabilis)と評している[204]。973年5月11日、聖霊降臨祭の日曜日(ホイット・サンデー)に、エドガー王とエルフスリス王妃がバースで国王と王妃として聖別された。国王は通常、有力者たちにより正式に推戴されたのち即位直後に戴冠されるのが慣例であったが、エドガーについては治世初期に戴冠した記録は残っていない[205]。アングロ・サクソン年代記はこの時を「最初の戴冠」と示唆している。年代記A・B・C本は「戦に勇敢なエドマンドの子は、この時すでに29年を世に過ごし、30年目に王として聖別された」と記し、D・E本では彼を「アシリング(王子)」エドガーと記している[206]。歴史家たちは、この儀式が「二度目の戴冠」であったのか、それとも、もし最初の戴冠式であったならば、なぜ即位から数年遅れて行われたのかについて議論している。ある説では、司祭叙任の最低年齢である30歳に達するまで待ったことが原因とされるが[207]、エドガーは当時29歳でまだ基準を満たしておらずこの説には疑義が呈されている[208]。12世紀のウスター大聖堂の修道院長ニコラスによれば、エドガーは「若き日の情欲を克服するまで」聖別を延期したとされる[209]。またステントンは、エドガーが「精神と行動において十分に成熟したと感じるまで」待った可能性を指摘する[207]。一方で、ジャネット・ネルソンをはじめとする多くの歴史家は、エドガーは治世初期にすでに戴冠していたと考える。ネルソンは、正統性の確保のためには即位直後に戴冠する必要があり、973年の儀式はむしろ「ブリテンの宗主」として帝国的地位を誇示するためのものであったと論じている[210]。この戴冠がアングロ・サクソン年代記の初期の写本(A・B本)で詩として記録されていることは注目すべきである。年代記が戴冠について言及すること自体が稀であるため、この儀式が特別な意味を持っていたことを示唆している[7]。当時、華麗な儀礼と演出の先進地はドイツ宮廷であり、オットー大帝のもとへ派遣されたエドガーの使節団が得た情報は、バースでの戴冠式を計画するうえで大きな役割を果たした可能性が高い[211]。
11世紀後半から12世紀初頭にかけて成立したアングロ・サクソン年代記の北部系写本D(ASC D)には、エドガーが艦隊を率いてチェスターへ赴き、そこで六人の王が彼に対して陸海の盟約を誓ったと記されている[212]。それから25年以内に書かれたエイシャムのエルフリックは、同じ出来事を述べて「この島にいたすべての王、カンブリア人とスコット人がエドガーのもとに集まり、一日に八人の王がそろって彼に従い、皆が彼の権威に服した」と記している[213]。12世紀には、ウスターのジョンとマルムズベリーのウィリアムがチェスターでの会談の様子を伝えている。彼らによれば、諸王はディー川でエドガー王の乗る船を漕ぎ、それを服従の象徴としたという。前代の史料と異なり、彼らは王たちの名を挙げており、ウェールズ史家トマス・チャールズ=エドワーズはその人物比定を次のように示している――スコットランド王ケネス2世、ストラスクライド王ダンヴァルとその子マール・コルイム、諸島王マッカス・マク・アラルト、グウィネズ王イアゴ・アブ・イドワルとその甥ハイウェル・アプ・イェウァヴ、そしてその他素性不明の二人、すなわちヴァイキングだった可能性のあるシフェルス(Siferth)と、古ウェールズ語名Iudhailから派生したと考えられるイウチル(Iuchil)という名の人物である[214]。ウスターのジョンは最も詳しい記述を残しており、そこでは諸王を「従属王(underkings)」と呼び、こう述べている。
- 彼らは王の命に従って彼のもとに参上し、陸海にわたり忠実を誓い協力すると誓った。ある日、彼らは王と共に小舟に乗り込み、櫂を執らされ、王自身は舵を取り、巧みにディー川の流れを操って漕ぎ下った。伯や貴族たちも群衆を率いて別の船に従い、宮殿から聖ヨハネ修道院へと進み、祈りを捧げた後、同じ華やかさをもって宮殿へ戻った。入場の際、王は自らの貴族たちに長々とこう告げたと伝えられている――「わが後継者たちは皆、イングランドの王であると誇り、かくも多くの王を従える栄誉の威容を享受できるであろう」[215]。
一部の歴史家は、この会合を支配者同士の対等な協議と見ている[216]。チェスターでの会合は、イングランドによるウェールズやスコットランドへの攻撃に続く、諸王の会議であった可能性がある。ロージアンは950年代以来おそらくスコットランドの支配下にあり、この時期にエドガーが正式に割譲したと考えられている[7]。ケネス王に関しては、この譲歩を確保するために会合に参加した可能性も考えられており、ウィリアムズの見解では、彼が自らをエドガーの臣下と見なした可能性は低いという[217]。歴史家クリストファー・ルイスは「チェスターで実際に何が起こったのかは、12世紀の歴史家による潤色によって取り返しのつかないほど曖昧になっている」と述べている[218]。
他方でイングランドの優位を認める見解もある。歴史家レヴィ・ローチ並びにリチャード・ハスクロフトは、チェスターでの出来事をエドガーの覇権を示すものと解釈する方が合理的だと考えている[219]。モリノーもこの意見に同意しており、イングランド王は他の支配者を脅すに足る圧倒的な軍事力を持っていたため、「もし諸国が自領を荒廃させられることを避けたいのであれば、チェスターへの招待を断ることはできなかったのだろう」と論じている[220]。エドガーは勅許文書において自らを「ブリタニアの支配者」「アルビオンの支配者」と称し、イングランドがブリテン全島に覇権を主張していたことを示している。こうした称号は修道院改革者の著作にも現れ、10世紀の他の王たちの称号にも見られる[221]。これらの主張はエドガーの治世に最高潮に達したが、実際にはブリテンの他民族に対するイングランドの支配力は、世紀前半の一部の時期に比べて弱かった。例えば、スコットランドやウェールズの王がエゼルスタンの勅許文書に署名することはあったが、エドガーのものには一度も見られない。また、973年のバースでの戴冠式にも出席したのはイングランドの有力者だけであり、946年のエドレッドの戴冠には少なくとも二人のウェールズ王が出席していた。エドガーの治世後、南部の王たちによるブリテン諸国への覇権はさらに弱まり、1031年までスコットランド、ウェールズ、カンブリアの王がイングランドの覇権を認めた証拠は見られていない[222]。
死

エドガーは975年7月8日に31/32歳で死去した[7]。彼は父の埋葬地であり、またダンスタンやベネディクト会修道院改革運動と特に関わりの深い修道院であるグラストンベリー修道院に葬られた[224]。この埋葬を契機に、修道院は王家崇敬の中心的役割を担うようになった[225]。ただし、彼が聖人として崇められた証拠は11世紀半ば以前には見られない[226]。 歴史家デイヴィッド・ローラソンは、エドガーは修道院改革に果たした役割にもかかわらずその崇敬が驚くほど広がらなかったと述べており、「修道女との関わりを含む性的逸話が語られたことにより、その崇敬は弱められたのかもしれない。」としている[227]。現代の一部カトリック系の資料では、エドガーは7月8日を祝日とする聖人として記されている[228] 。彼の子供のうち、エディスとエドワードの二人は、死後間もなく広く聖人として崇敬を受けた[229]。
エドガーの死後、イングランド王位を巡り、生き残っていた彼の二人の息子とそれぞれを支持する派閥間の争いが勃発した。3男エゼルレッドは母親エルフスリスとその同盟者であるエゼルウォルド司教の強力な後ろ盾を得ていたが、最終的には長男のエドワードがダンスタンとエゼルウィンの支持を得て、イングランド王となった[230]。この争いは、修道院改革の賛否をめぐるものではなく、エドワード支持派とエゼルレッド支持派の個人的な対立によるものであった。国を二人の王位請求者の間で分割するという発想すらなかったことは、エドガーの改革による国家統一の成果を物語っているのかもしれない[231]。エドワードは978年に暗殺され、その後を継いだのはエゼルレッドであった。しかし彼の治世は惨憺たるものとなり、最終的にはデンマークによるイングランド征服へとつながった[232]。
評価
歴史家ジュディス・グリーンは、エドガーの治世を「多くの点でアングロサクソン王権の絶頂期」と評している[233]。エリック・ジョンも「アングロサクソン国家史の最高点を画している」と述べ、その一つの証拠として「逆説的ではあるが、エドガーの時代には世俗的事件の記録が少ないこと」を挙げている。暴力的事件は年代記作者にとって常食の題材であったからである[175]。他の歴史家もエドガーを称賛している。レヴィ・ローチはその治世を「修道院改革と行政的発展が統一王国のより安定した基盤を提供した点で注目すべき」と評し[234]、マーティン・ライアン(Martin Ryan)は「エドガー王の治世末までに、アングロサクソンのイングランドは高度な統治機構を備えるに至り、中世的基準からしても著しく先駆的な行政的成果を成し遂げられるようになっていた」と論じた[235]。モリノー(Molyneaux)もまた10世紀中後期を行政発展の決定的時期とみるが、エドガー本人がどこまで主導したかは不確かだとし、「この時期はアルフレッドやエゼルスタンの治世以上に、11世紀イングランド王権の基盤となる制度的構造が形成される最も重要な局面だった」と述べている。そして、貨幣改革のような大きな変化でさえ征服以後まで記録されなかったことは、彼の治世の他の重要な変化が後世に誤って帰せられている可能性を示唆している[236]。
フランク・ステントンの評価はより控えめである。彼はエドガーの治世を「特に事件の記録が乏しい時代」と評し、それをエドガーの統治者としての有能さに帰しているが、同時に次のようにも記している。
- エドガーをアルフレッドやアゼルスタンといったウェセックス王家の他の傑出した人物と比べると、彼は直ちに彼らより下位の存在に落ちる。海の彼方からの蛮族に対してイングランド文明を防衛する必要もなく、イングランド内部の蛮族的勢力と向き合う問題も抱えなかった。彼の歴史上の役割は、先王たちが築いた平和を維持することにあったのである[207]。
より批判的な見方を示す歴史家もいる。サイモン・ケインズは「エドガーが死去した975年7月8日に、彼の王国の『平和』が直ちに乱されたのは、彼の統治者としての『強さ』の証拠である」と述べ、エドワードの治世における混乱は「専制的体制の具現者の急死に際して予期される種類の社会的・政治的混乱の表れ」とみなすべきだとする[237]。彼の統治は個人的な掌握力に大きく依存しており、その死後に数多くの問題が生じたのも理解できるとされる[87]。アン・ウィリアムズも同様の見解をとり[7]、ベン・スヌークは、彼の死後の内紛とその子エゼルレッドの下での国家崩壊は、950年代の派閥抗争がエドガーによって一時的に抑え込まれていただけにすぎないことを示すと論じた[238]。修道士作家たちによるエドガー王治世の美化された描写について、ポーリン・スタッフォードは「乏しい史料状況のため、修道院聖人伝におけるこの漆喰のような聖人像に対抗できる別の像を構築するのは難しい」と評している[239]。
『アングロサクソン年代記』の大部分は散文であるが、10世紀の三人の王は頌詩の主題となった。アゼルスタン王並びにエドマンド王は特色のある内容が記されているが、(937年のアゼルスタン王治世ブルナンブールの戦いでの大勝、942年のエドマンド王治世におけるデーンロウ五都市(en:Five Boroughs of the Danelaw参照)奪還)、エドガーに関する三篇はいずれも一般的なもので、彼の即位・戴冠・死去の年に重きが置かれている[注釈 11]。歴史家メルセデス・サルバドール=ベリョ(Mercedes Salvador-Bello)は、これらを「エドガーを自らの庇護者として称え、彼をキリストと比較した修道院改革者たちの作品」とみなしている[241]。エドガーの治世はその子らの治世に続く混乱を経て黄金時代と見なされるようになったが、彼の渾名 Pacificus が初めて記録されるのは12世紀、ウスターのジョンが記した年代記においてである[242]。その訳語として「平和的(Peaceful)」が一般向けの資料ではよく見られるが[228][243]、この時代を扱う学術的著作で用いられることはほとんどない[注釈 12]。歴史家ショーン・ミラーは、エドガーは暴力に訴えることを厭わなかったので、この称号は「性格的な穏やかさ」ではなく「軍事力による厳格な統制によって平和を保持した人物」という意味で「平和をもたらす者(peacemaker)」と訳す方が妥当であると論じている[245]。
注釈
- ^ 太守(エアルドルマン)とは、王に次ぐ権威を有する貴族であり、国王名代として広大な領地を運営し、戦時には地元の民兵を率いて王を支援する任を負っていた[14]。
- ^ アングロサクソン年代記はA版からH版まで存在し、それぞれASC A, ASC B, … ASC[45] 。
- ^ 958年の二つの王令文書(S 674とS 679)ではエドガーが「イングランド王」と記されているが、この様式は他の文書から転用されたもので、彼の地位に合わせて修正されるべきだったのを見落とした可能性が高い[53]。
- ^ 『レグラリス・コンコルディア』については下記「宗教」節を参照
- ^ 金貨単位、1マンクス=30ペンスに相当[92]。
- ^ エドガーの勅許文書は、ケインズによる『957年〜975年のエドガー王の勅許文書一覧(A Conspectus of the Charters of King Edgar 957–975)』の中で、注釈付きで整理されている[104]。
- ^ 横型貨幣(Horizontal coin types)は、裏面に鋳造者の名前を2行で横向きに刻んだものである。エドガーの治世に一般的だった横型には、上下に三つ葉文様(en:trefoil)が置かれた「HT型」と、三つ葉の代わりにロゼット文様を配した「HR型」があった。環状十字型(Circumscription Cross type)は、表裏両面の中央に十字を置き、表には王名、裏には鋳造者の名をその周囲に刻んだものである。戴冠胸像型(Bust Crowned type)は、表面に冠をかぶった王の胸像を描いたもので、しばしば粗い出来のものもあった[133]。
- ^ 正式名称はトマス・サイモンズによる1953年版の題名に示される:Regularis Concordia Anglicae Nationis Monachorum Sanctimonialiumque: The Monastic Agreement of Monks and Nuns of the English Nation[158]。
- ^ 戴冠式については「973年の出来事」節を参照。
- ^ 979年にヨーク太守であったソレッドと同一人物である可能性あり[196]。
- ^ 歴史家ドロシー・ホワイタロックはエドガーの死を追悼する詩について「年代記作者が主に散文を用いたことに感謝したくなるような出来」と述べている[240]
- ^ 同時代を扱う学術的文献を約30点を調べたところ、索引に「Peaceful」と記したものはなく、「Peaceable」としたものが一件のみ存在する程度であった[244]
脚注
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外部リンク
- Edgar at the official website of the British monarchy
- イングランドのアングロサクソンのプロソポグラフィのEdgar 11。
- The Laws of King Edgar, Medieval Sourcebook: The Anglo-Saxon Dooms, 560–975, Fordham University, New York
- Edgar - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- エドガー平和王のページへのリンク