エドマンド2世_(イングランド王)とは? わかりやすく解説

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エドマンド2世 (イングランド王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/04/18 22:01 UTC 版)

エドマンド剛勇王
 : Edmund Ironside
14世紀初期に描かれたエドマンド剛勇王の肖像画

在位期間
1016年4月23日11月30日
先代 エゼルレッド無策王[1]
次代 クヌート大王[1]

出生 990年[1]
イングランド
死亡 1016年11月30日
享年25-26歳[1]
イングランド
オックスフォード 又は ロンドン
埋葬 グランストンベリー修道院英語版
王室 ウェセックス家
父親 エゼルレッド無策王
母親 エルフギフ・オブ・ヨーク英語版
配偶者 アルドギース英語版
子女
エドワード・アシリング
エドマンド・アシリング
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エドマンド剛勇王(991年頃 – 1016年11月30日、英語Ēadmund古ノルド語Játmundrラテン語Edmundusエドマンド2世としても知られる[注釈 1])とは、11世紀のイングランド王(在位:1016年4月23日 - 同年11月30日)である。エドマンドの治世は、クヌート大王率いるデーン人の侵攻との戦いが多くを占めている。

エドマンドは990年から993年の間に、エゼルレッド無思慮王の息子として生まれた。1015年以前のエドマンドの生涯についてはほとんど知られていない。彼の活動に関する最初の具体的な証拠は1000年代後半のものであり、兄のアゼルスタンと親密であったようである。エドマンドはおそらく1009年から1011年の戦役、および1013年の戦役において父とともに戦ったが、同年のスヴェン双叉髭王の侵攻により王族たちがノルマンディーへの亡命を余儀なくされた際、エドマンドはアゼルスタンとともにイングランドに留まった。1014年6月にアゼルスタンが没すると、エドマンドはその遺言における主な受益者となり、マーシア王オッファの剣とデーンロウの所領を譲り受けた。エドマンドはデーンロウの五市英語版におけるアゼルスタンの人脈を継承した。親密な同盟者であった従士シゲフェルス英語版モーカー英語版がエゼルレッド王の黙認・許可のもとでマーシア太守エアドリク・ストリオナに殺害されると、彼は反乱を起こし、不法にシゲフェルスの未亡人と結婚して五市を占領した。エドマンドは2通の勅許状英語版を発行しており、そのうち1通で自らを王と称した。

エドマンドの反乱は、1015年夏のスヴェンの息子クヌートによる侵攻英語版によって突如として終息した。ウェセックスにおけるクヌートの占領に対抗するため、彼は父およびマーシア太守エアドリク・ストリオナとともに軍を召集しようとしたが、不信感からいずれも崩壊した。北方の領主ウトレッド英語版ともに召集された第3の軍勢も、クヌートがバンバラ英語版を脅かした際にウトレッドがクヌートに服従したため、瓦解した。1016年4月23日にエゼルレッドが没すると、エドマンドは間もなく王位を主張した。彼はペンセルウッド英語版シャーストンの戦い英語版ブレントフォードの戦い、そしておそらくオットフォード英語版においてクヌートと4度の合戦を行い、軍事的成功を収めた。しかしアッサンダンの戦いでクヌートと対峙した際、彼は「全イングランド国民」の支持を受けていたが、エアドリク太守がエドマンドを見捨てて逃亡したため、イングランド軍の決定的な敗北を招いた。おそらく6度目となる合戦の後、エドマンドはオールニー英語版において王国の分割を余儀なくされ、エドマンドが保持するウェセックスを除くすべてのイングランド領をクヌートが受け取ることとなった。

エドマンドは222日間の統治の後、11月30日に没し、それによってクヌートは残りのイングランドを統合した。その後、クヌートはエドマンドの家族や支持者を追放または処刑した。クヌートが創設したデーン人の王統は1042年に終わり、エドマンドのはるかに年少の異母弟エドワード懺悔王の下で一時的にウェセックス家が復興した。エドマンドの孫であるエドガー・アシリングは、一時期イングランド王位の請求者であった。エドマンドの名声は中世の史料で称えられており、クヌートと互角に戦い、妥協を強いた勇敢で有能な王として一般に認識されている。

背景

エドマンド剛勇王の存命時、イングランドの軍事指導者たちは、「Hirédmenn」や「Hearthweru英語版」など様々に呼ばれる、自らの家臣団を伴っていた[2]。これらの戦士団は忠誠心に強く依存していた。主君と家臣の関係は強固であり、合戦においては精鋭として主君の傍らで直接戦った。アングロ・サクソン後期のまでに、主要な政治的指導者はほぼ全員が自らの戦士団を所有していた[3]。この集団だけで大規模な軍事作戦を遂行することは期待されておらず、地元の有力者によって召集された「民兵英語版」によって補完された。より広範な兵力基盤ではあったが、通常は平民から召集されるのではなく、土地所有者から召集され、その多くは貴族階級であった[4]。州(シャイア)は戦術的および行政的な単位として用いられ、そこでは地元の指導者によって軍勢が結集・召集された。必要に応じて、軍役は下層階級にまで拡大された可能性がある[5]

9世紀に始まったイングランド領内へのスカンディナヴィア人の襲撃は着実にエスカレートし、彼らはイーストアングリアおよびノーサンブリアの多くを征服した[6]。この時期は、スカンディナヴィアにおける国家形成の時期にあたり、ノルウェー・デンマーク英語版、及びスウェーデン英語版が、10世紀のイングランドとほぼ同時期に王国へと統合されていった。多くの外国の著述家は「デンマークの王」に言及したが、実際には多くの小王や諸侯が存在した[7]。スカンディナヴィア人の忠誠心は決して一様ではなく、互いに衝突し、時にはキリスト教徒の統治者によって雇用されることもあった[8]

アルフレッド大王はこの脅威を押し戻し、890年代までに自らをアングロ・サクソン人の王と宣言した[9]。その息子エドワード長兄王が924年に没するまでに、ハンバー川以南に残っていたデーン人の政治体はイングランドの手に落ちた[10]。エドワードの息子アゼルスタンは、927年にノーサンブリアを征服して最初のイングランド王となった[11]。エドマンドの同名の祖父エドマンド1世とその弟エドレッド(エドマンドが殺害された際、彼の息子たちが幼すぎたため跡を継いだ)は、ともに北部を失い、治世中に再征服しなければならなかった[12]。959年、エドマンド1世の次男エドガーが、兄エドウィの困難な治世の後、イングランド王として戴冠した[13]。彼は平和な治世を享受し、フランク・ステントンはそれを「特筆すべき事件が全く欠如している」時代であると評した[14]

エドガーは975年に没し、長男エドワードの派閥と次男エゼルレッドの派閥の間で継承争いが生じ、エドワードが勝利した[15]。しかしエドワードは978年3月に殺害され、エゼルレッド2世が跡を継いだ[16][注釈 2]。アルフレッドは30の要塞(ブルフ)のネットワークと年間を通じた常備軍を確立しており、それは彼の治世や継承者たちの征服の治世において、ヴァイキング軍に対して効果的であることを証明していた[19]。リチャード・エイベルズは、王たちの地位が安定するにつれてイングランドの防衛が緩み、それがエドワードの治世にピークに達し、イングランドを危険なほど脆弱なままにした過程を追跡している[20]。さらに、多大なる努力にもかかわらず、ウェセックス王朝はかつてのデーンロウ内の臣民の支持をほとんど頼りにすることができなかった[21]。エゼルレッド自身の性格はこれらの問題に対処できるものではないとは思われていた。侵攻への対処における成功の対照から、彼は頻繁にアルフレッド大王と比較されるが、ケインズは両者の違いを明文化しようと試みた。ステントンはエゼルレッドを「発作的な暴力」性の持ち主と評したが、これも近年では異論が出されている[22]。1000年代、エゼルレッドはイングランドの従士の間で再軍備計画を開始することとなる[23]

一次史料

今日知られている『アングロサクソン年代記』(ASC、または単に年代記と略される。)は、おそらくアルフレッド大王の統治下の9世紀後半に起源を持つ[24]。983年から1022年の期間をカバーする写本C、D、Eの年次記録は、一部の学者によって「エゼルレッド年代記」( Æthelredian Chronicle )と呼ばれており、エドマンドの活力と有効性を称える傾向を示す一方で、エゼルレッドとその助言者たちの政策には強く反対している[25]。イアン・ハワードは、年代記に描かれたエドマンドの性格を2つのフェーズに分けている。第1フェーズは1015年に始まり1016年4月のエゼルレッドの死で終わり、第2フェーズはエゼルレッドの死に始まり11月のエドマンド自身の死で終わる[26]。ハワードは年代記を「概ね事実に基づき信頼できる」としているが、年代記作者の出来事の回想は、当該の出来事に対する後知恵によって色付けされていた[27]レヴィ・ローチ英語版はエゼルレッドの伝記の中で、「最終的なイングランドの敗北という予見が、彼の記述の随所に付きまとっている」と評している[28]

エンコミウム・エンマエ英語版』(王妃エマの賛辞)の匿名の著者は、しばしば単に「エンコミミスト(賛辞作者)」と呼ばれ、テキストの中で自らをサン=ベルタン修道院英語版の修道士であると名乗っている。彼は、パトロンであるエマの特別な依頼を受けてこの作品を書いたこと、彼女にいくらかの感謝の念を抱いていること、そしてクヌート王が帰国の途上で修道院を訪れた際に彼を目撃したことに言及している[29]。彼はおそらく、パトロンであるエマの強い勧めにより、ハーデクヌーズ(クヌート王の末息子)の治世中に執筆を開始したと思われ、この賛辞はエマとその子供たちの正当性を示すことを意図していた[30]。したがって、彼は年代記作者よりも、政治的目的を果たすために事実としての歴史を操作することに意欲的であった[31]。この時期に関する同時代の史料としては、ノース人のスカルド詩の形式をとるものが3つあり、『Knútsdrápa英語版』、『Víkingarvísur英語版』、および『Liðsmannaflokkr英語版』である。最後の一つは前の二つよりも地名においてさらに曖昧な描写がある。これら3つはいずれも、クヌート大王の名声を高める役割を果たしている[32]

若年期

幼少期

エドマンドの父エゼルレッドによって発行された、アビンドン修道院に有利な993年6月4日付の特許状S 876。[33]

エドマンドの正確な生年月日は不明であるが、2人の兄とともに勅許状の署名者となった993年より後ではないことは確かである。歴史家デヴィッド・マクダーモットは991年の出生を示唆している[34]。彼は曾祖父エドマンド1世にちなんで名付けられた[35]。彼はエゼルレッド王とその最初の妻(おそらくヨークのエルフギフ英語版と呼ばれ、おそらくノーサンブリアの太守ソレッドの娘であるとされる)との間に生まれた6人の息子のうちの3男であった。兄はアゼルスタン・アシリングとエグバート(1005年頃没)であった[36]。弟はエドレッド英語版エドウィ英語版、およびエドガーであった[37]。彼には4人の姉妹、エドギス(またはエディス)、エルフギフ、ウルフヒルド、およびのちにウェアウェル修道院英語版の院長となった者がいた[36]

彼がウェセックス、おそらくはエセリンガデネ(現在のシングルトン英語版)で生まれ、祖母エルフスリス英語版によって育てられたという有力な証拠が残されている[38]。これにより、彼はウェスト・カントリーで有力者オドガー英語版の息子たちとの結びつきを得ることとなった[39][注釈 3]。オドガーの息子オドウルフ英語版は「デヴォンの人々の中で筆頭」と呼ばれた[39]。後の経歴を考えれば、エドマンドは武器の使用、宗教、および美徳について教えられたはずであるが、これは推測の域を出ない[40]。彼はおそらくウェアウェル修道院で、そしておそらく母親の付き添いのもとで教育を受けた[41]

エドマンドの誕生に先立ち、イングランドでは986年の飢饉、およびモルドンの戦いでのイングランド軍の決定的な敗北とヴァイキングへの貢納金支払いに至る980年代の襲撃のエスカレートによる混乱が生じていた[42]。1万ポンドの貢納金の支払いに加え、この合戦ではエセックスブリュトノス太守英語版が戦死した[42]。その結果、エゼルレッドの態度は大きく変化した[43]。993年の五旬節に、彼はウィンチェスターで会議を召集し、自らの過ちを認めて、想定される誤りを正すことに着手した[44]。エゼルレッドはエドワード殉教王の崇拝を推進し、イングランドの改革運動と和解した[45]

997年から、イングランドでは絶え間ない襲撃が続いていた。1000年に一時的な休止があったものの、1001年にはエドマンドが育った場所であるエセリンガデネにまで彼らは押し寄せた[46]。1002年、エゼルレッドはデーン人に対する虐殺を命じた。デーン人は道徳的な脅威と見なされており、さらにエゼルレッドは彼らの忠誠心を疑っていた可能性があるが、彼らが第五列を形成する可能性は低かった[47]。スカンディナヴィア人の襲撃は、第一波が1003年から1004年にかけて、そして第二派が1006年にデンマーク王スヴェン双叉髭王に率いられて続き、1007年にはイングランド側に再びの貢納金支払いを強いた[48][注釈 4]のっぽのトルケルに率いられた大規模な連合軍が1009年から1011年にかけて南イングランドを荒廃させ、エゼルレッドの軍事的対応は概ね効果がないことが判明した[50]。部下たちがカンタベリーを略奪しエルフヘア大司教英語版を殺害した後、トルケルは傭兵としてエゼルレッド側に寝返った。記録にはないが、エドマンドは1009年から1011年の戦役、および後の1013年において、初期の軍事経験を積んでいた可能性がある[51][注釈 5]。1005年から、エアドリク・ストレオナが王宮での支配権を独占し始め、エゼルレッドの以前の廷臣の多くを追い出した[55]。エアドリクとウトレッド伯はともに、エゼルレッドの娘たちと結婚することとなる[56]

第2位王子

エドマンドの母親は1000年頃に没したか、あるいは離縁された[57]。その後、父はエマ・オブ・ノーマンディーと再婚した。二人の間には、エドワード懺悔王アルフレッド・アシリング、および娘のゴドギフ英語版という3人の子供が生まれた。アゼルスタンとエドマンドは個人的に親密で政治的な同盟関係にあったようであり、彼らはおそらく、自らの息子たちのために動くエマの野心に脅威を感じていた[58]。エドワードは1004年から1005年頃、ゴドギフは1007年から1008年頃、アルフレッドは1011年から1012年頃にエマから生まれた可能性がある[59]。1007年から1014年の間のいずれかの時期に、シェルボーンの教会がエドマンドにホルコム・ローガス英語版の所領を貸し出した[60]。エドマンドの賃貸借契約には彼の家臣たちが証人として名を連ねており、後の兄の遺言と合わせることでアシリング(王子)たちの家臣団について部分的な理解が可能となる[61]。賃貸借契約書には、エドマンドがどのようにしてその財産を手に入れたかが詳しく記されている。

ここに、エドマンド・アシリングがシェルボーンの共同体に対し、ホルコムの領地を保持する許可を求めたことがこの文書に宣言されている。共同体はこの[要求]を拒む勇気がなかったが、彼らの上長である王と司教が同意するならば、確かにそれを認めると述べた。その後、彼らは合意に達し、アシリングと副院長および主要な修道士たちが王のもとへ参じてこの件を報告し、王の同意を求めた。そしてウルフスタン大司教英語版が代弁者を務めた。その際、王は領地を完全に手放すことは望まないが、逆に、全員が合意した時期に聖なる財団に返還されるような取り決めをすべきであると述べた。その後、アシリングは、産物や人々やその他すべてを含む現状のままの領地に対し、共同体に20ポンドを支払い、生涯これを使用し、彼の死後は当時の産物や人々やその他すべてとともに聖なる財団に復帰させることで合意された。[62]

これにはウェルズの司教リフィング英語版(後のカンタベリー大司教)、シェルボーンの司教エゼルリック、コーンウォールの司教エゼルシゲ、および肥満なるエゼルメール英語版が証人となっており、これらの人物との繋がりを示唆している。他の署名者には、譲与において王の代表を務めたヨークのウルフスタン大司教とエアドリク・ストレオナが含まれていた[63]

エゼルレッド王によって鋳造された「アニュス・デイ」タイプの銀ペニー硬貨。[64]

スヴェンは1013年、息子のクヌートとともにイングランドへの侵攻を開始した[65]。8月にサンドウィッチに上陸した後、彼は初期の抵抗を蹴散らして北上し、ワトリング街道英語版以北のイングランド人の服従を受け入れた[66]。彼はその後、ワトリング街道以南へと進んだが、その時点で彼の部下たちは、ASC Cによれば「いかなる軍勢もなし得る最大の損害を与えた」という[67]。スヴェンはまずロンドンを攻撃したが、成功しなかったため、エゼルメール太守英語版の服従を受けてウェセックスの残りを確保した。孤立したロンドンは降伏し、エゼルレッドは存命中の2人の年長の息子、エドマンドとアゼルスタンを除く家族とともにノルマンディーへの亡命を余儀なくされた[68]。この二人は父とともに逃げるのではなく、イングランドに留まることを選んだようである[69][注釈 6]。スヴェンは1014年2月に没し、リンジーに集結していた彼の支持者たちとデーン軍はクヌートを王として受け入れた。しかし、クヌートは軍事経験が不足気味であり、スヴェンの死はイングランドにおけるデーン側の勢力を弱めていた[71]。一方、エゼルレッドは四旬節の時期にイングランドに戻り、ロンドンから軍を召集して4月にクヌートを攻撃した。クヌートは速やかに敗北し、デンマークへ逃亡した[72]

アゼルスタンは「ほぼ確実に」1014年6月に没した[73]。エドマンドは兄の遺言における主な受益者であった。彼は3振りの剣(うち1振りはオッファのもの)、銀のラッパ、イースト・アングリアとダービーシャーの土地、および多くの遺贈を履行する責任を受け継いだ[74]。アゼルスタンの遺言はまた、兄弟とイースト・ミッドランズの貴族との間の密接な関係を反映していた[75]。エドマンドは、エアドリク・ストレオナに対抗するために、デーンロウ地方の有力貴族である従士シゲフェルス英語版モーカー英語版兄弟とアゼルスタンとの同盟を継続した[76]。彼らの敵対の一つの考えられる理由は、エアドリクがエマの子供たちの主張に同情的であったことであるが、確定的な証拠はない[77]。エドマンドは王位の王位継承第一位となり、王の勅許状において王子の筆頭に記されるようになった[78]

結婚と反乱

1015年初頭、オックスフォードでの集会において、シゲフェルスとモーカーはエアドリク・ストリオナによって欺かれ処刑された。共謀していたエゼルレッド王は彼らの土地を没収し、通常エルドギスと呼ばれるシゲフェルスの妻をマームズベリ英語版の修道院へ幽閉させた[79]。彼がマームズベリを選んだのは、そこが防御の固い王領のブルフ英語版であったこと、また、兄弟の処刑をめぐるミッドランズの動揺から彼女を引き離すためであった可能性がある[80][注釈 7][注釈 8]

エドマンドはこの仕打ちに反発し、マームズベリからエルドギスを救い出し、王の意に反して彼女と結婚した[86][注釈 9]。この行為は政治的同盟者シゲフェルス・モーカー兄弟の殺害以外にも、エドマンドは宮廷における継母エマ王妃、異母弟エドワード、およびエアドリクの宮廷内での地位昇進によって刺激された可能性がある[88]。当時は貴族女性が連れ去られて結婚させられる事件が多くあったが、これらの女性の中にはおそらく自らの拉致に共謀していた者もいたであろう[89]マームズベリのウィリアムはこの件に関する修道院の記録を参照しており、彼は未亡人を見た途端、エドマンドが彼女に魅了されたと主張している[90]。より現実的には、彼女と結婚することで、彼は自らの威信を高め、マーシアにおける自らの支持を固めることができた[91]。このように王に背く意欲があったことを考えれば、エドマンドはもはや父エゼルレッドの命令に対する敬意を失っていたのかもしれない[92]

エドマンドはおそらくマームズベリを支持者を召集するための拠点とし、その後、新しい花嫁とともに、古いローマの道であるフォッス・ウェイ英語版に沿って北上し、デーンロウの五市英語版へ進軍した。おそらくこれにトークジー英語版(またはダービー)とヨークの勢力が加わっていたと思われる[93]。彼はその後、五市英語版の人々の服従を受け入れ、シゲフェルスとモーカーの遺領を差し押さえた[94]。これは相当な資産であったはずである。ASC Cは兄弟を「七市に属する筆頭の従士たち」と呼んでおり、モーカーの土地はダービーシャーに集中していた[95]。支持を得るため、エドマンドは少なくとも2通の勅許状を発行してノーサンプトンシャーサフォークの土地を付与し、さらに多くの勅許状を発行した可能性もある。自らの授与状において、彼は事態を悪化させたかもしれない「国王エドマンド・アシリング」と自称するところまで行ったが、後に単に王の息子と称するように改めた[96]。この年におけるエドマンドの行動は、本質的に反逆罪に近いものであった[97][注釈 10]。これらの出来事はおそらく、『年代記』とジョン・オブ・ウスター英語版の記述に基づけば、被昇天祭誕生祭英語版の間の8月から9月にかけて行われたと思われる[100]

戦時の王

初期の守勢

クヌートはイングランドから追い出された後、兄ハーラルが統治するデンマークに滞在していた[101]。先述のようにイングランドで生じた混乱に乗じたのか、彼は再侵攻を開始し、サンドウィッチに上陸した[102]。ここから、クヌートはエドマンド王子が勢力を有する北部イングランドではなく、ウェセックスの奥深くへと進軍し、ドーセット、サマセット、およびウィルトシャーを略奪した[103]。エドマンドとクヌートはともにミッドランズに対して影響力を持っており、エドマンドは今やその多くを直接支配していたが、エドマンドがクヌートに対して軍を差し向けようとした当初の数回の試みは成果を上げなかった。状況は混乱していた。エゼルレッドはコーシャム英語版で病床に伏しており、エドマンドは形式上は依然として反乱中の身であったが、それでも、エドマンドは五市から軍を召集し、9月下旬か10月上旬までにエアドリク自身の軍勢と合流した[104]。この軍勢も、伝えられるところによればエアドリク側の裏切りによって瓦解し、エアドリクはその後すぐにクヌートに降伏した[105]

エアドリクに続いてウェセックス地域の民衆も、クヌート側の降り、人質と補給品を与えた[106]。1015年の末までに、自らの王国に対するエゼルレッドの支配力は崩壊しつつあり、エドマンドがデーンロウと東マーシアを、クヌートがウェセックス中央部を保持していた[107]。1016年1月、クヌートとエアドリクはウィッチェウォリックシャーに進出し、ASC Cによれば、彼の部下たちは「略奪して焼き払い、出会った者すべてを殺害した」という[108]。これに対してエドマンドはマーシア人の間で軍勢を招集したが、彼らはロンドン市民とともにエゼルレッド王自身も加わることを求めた。これは、エドマンドが王としてなお十分な権威を確立していなかったためだとする見解もあるが、アングロ・サクソン時代のイングランドでは有力貴族が独自に軍勢を動員した例は他にもあり、1015年から1016年の戦役においてもそれは見られる。むしろマーシア人は、ロンドン守備隊の支援なしには勝利に自信を持てず、しかも兵力の上でもクヌートとエアドリクに劣っていたのであろう[109]

エゼルレッドは再度の総召集命令を出し、エドマンドがこれを実行し、従わない者には罰を科すと脅した[110]。息子の懇願により、エゼルレッドはロンドンからかき集められるだけの部下を連れて北上することに同意し、おそらくセント・オールバンズでエドマンドと合流した。しかし、エゼルレッドが裏切りの気配を感じて逃走したため、この軍勢も崩壊した[111]。ASC Cはその加害者を「本来なら王を支えるべきであった者たち」であったと記している[112][注釈 11]。この時点でエドマンドは北上し、義兄であるウトレッドと、バンバラまたはヨークで合流した。彼らは共同で、クヌート側に寝返っていたスタッフォードシャー、シュルーズベリー、およびチェシャーを攻撃した。彼はエアドリクの支持基盤を攻撃することを意図していた可能性があり、またあえてクヌートとの合戦を拒否したのかもしれない[114]。クヌートはエドマンドに忠実な地域を攻撃し、大北方街道英語版に沿ってノーサンブリアへ向かった[115]。領地を脅かされたウトレッドは急いで北へ戻り、その報を聞くや否やクヌートに降伏したが、処刑された[116]。その後間もなく、エドマンドは衰弱していく父のいるロンドンに戻ったが、これには兵を募るというさらなる意図もあった可能性がある[117]。エゼルレッドは1016年4月23日にエドマンドに看取られて没し、エドマンドは速やかにロンドンの旧聖ポール大聖堂英語版に父を埋葬する手配をした。父と子は既に和解していたのである[118]

クヌートとの最初の合戦

ロンドンの市民と評議会はエドマンドを王に指名し、おそらくそのまま戴冠させた[119][120]。戴冠式を執り行ったのは、遅くともホルコム・ローガス英語版での土地取引の証人となって以来エドマンドと繋がりを持っていた、カンタベリー大司教リフィング英語版であったはずである[121][122]。一方でイングランド有力者の大多数は、サウサンプトンでの賢人会議においてクヌートを選出した[123][124][125]。マクダーモットの見解によれば、選出においてエドマンドに有利に働いた要因には、彼がロンドンに滞在していたこと、エアドリク・ストレオナの鞍替えによる不安定化、そして国内におけるクヌートの軍事行動があった[126]。エゼルレッド王の死に際しては、エマの息子であるエドワードも王位を主張していたが、イングランド内での支持は乏しかった[127]

歴史家ポーリン・スタッフォード英語版は、エゼルレッドの死以前には「実質的なイングランド側の抵抗は存在しなかった」と見なしている[128]。王に選出された後、エドマンドはウェセックスへと進軍した。ウスターのジョン英語版は、西サクソン人が熱狂的に彼に服従したと主張しているが、実情としては、西サクソン貴族の支持は真っ二つに分かれていたため、エドマンドは武力を行使し、相応の抵抗に遭ったと考えるのが妥当であろう[129][130][124]。エドマンドに対するウェールズの支持については、同時代の『メルゼブルクのティートマールの年代記』や『リスマンナフロクル英語版』に記録されている。以前、エアドリク・ストレオナがウェールズへ略奪を仕掛けていたことを鑑みれば、彼らの支持はエアドリクへの反感に基づいたものであった可能性が高い[131][128]。これに加え、エドマンドはウェセックスにおける王家への「深い忠誠心の泉」を頼りとしており、エゼルレッドから引き継いだスカンディナヴィア人傭兵をも戦力としていたと推測される[60][132]。新たな拠点を手にした彼は、サマセットウィルトシャードーセットの各州から兵を召集し始めた[133]

エドマンドがウェセックスへと離れた直後の5月7日から9日の祈祷日英語版の頃、クヌートはグリーンウィッチ英語版に到着し、直ちにロンドンを包囲した[134]。しかし都市を攻略することは叶わず、クヌートはウェセックスへ矛先を向け、ペンセルウッド英語版にてエドマンドと対峙した。後世のアングロ・ノルマン人の叙述ではこの戦いはエドマンドの勝利とされており、現代の多くの歴史家もこれを受け入れている[135]。しかし、ウスターのフローレンス英語版は、エドマンドは兵を揃えるのが間に合わなかったと記しており、歴史家ジェームズ英語版はこの記述に基づき、エドマンドは戦端を開くことすらできず、勝利したのはクヌートであったのではないかと示唆している[136]。あるいは、ペンセルウッドの結果は決着のつかない膠着状態か、エドマンドにとって不名誉な内容であったために、アングロサクソン年代記(ASC)では記述が控えられた可能性もある[137]。この理論に従えば、アングロ・ノルマン人がエドマンドを勝者としたのは、あくまでイデオロギー的な脚色に過ぎなかったということになる[138]

もしイングランド軍が実際に敗北していたならば、ジェームズの見解では、エドマンドは合戦を中断し、クヌートの追撃を振り切りながらサマセットのバースへと退却した可能性がある[139]。いずれにせよ、続くシャーストンの戦い英語版は6月の最終週に勃発し、デーン軍はおそらくクヌート自身に率いられていた[140][注釈 12]。ASC写本Cによれば、「両軍に多大な戦死者が出た」という激戦であった[112]

シャーストンは双方を疲弊させたが、勇猛果敢に戦ったとされるエドマンドが戦場を死守し、僅差での勝利を収めたようである[143][144]。シャーストンの勝利によりウェセックスにおけるエドマンドの威信は高まり、マームズベリは、残る西サクソン人もすべてエドマンドに服従したと伝えている。事実、その後の記録では、彼がこの地域から繰り返し軍を募っていることが確認できる[143]。結果として、シャーストンの戦いは決定的な転換点となり、クヌートに対する執拗な抗戦を続けるための強固な支持基盤をエドマンドに与えることとなったのである[120][142]

アサンダンへの道

エセックスにあるアシンドン英語版の丘。アッサンダンの戦いが行われた可能性の高い場所。

クヌートは再びロンドンを包囲したが、エドマンドは町の救援に向かうべく、ウェセックスから第3の軍勢を召集した[145]。進軍にあたり、エドマンドはテムズ川の北岸を進み、トッテナム英語版(当時の呼称は「クレイハンガー」)から奇襲を仕掛け、デーン軍を船へと敗走させた[146][注釈 13]。エドマンドはロンドンに2日間留まった後に追撃を再開し、ブレントフォード周辺でテムズ川を渡ってクヌートを攻撃した[148]。クヌートはその間に陣を立て直していたが、エドマンドはこれを撃破した。しかし、この渡河の際にエドマンドの部下の多くが溺死する悲劇に見舞われ、彼はさらなる兵を募るため一度ウェセックスへと退いた[149]。王の不在を突いてクヌートは包囲を再開したため、ロンドン市民の目にはブレントフォードの勝利も「空虚なもの」に映ったという[150]

クヌート側も戦況を打破できず、9月頃には略奪を目的としてマーシアへと転進した[151]。デーン軍はメドウェイ川を経由してケントへと引き返したが、エドマンドは速やかに新たな軍勢を糾合してこれに迫り、シェピー島までデーン軍を追いつめた。その途上のオットフォード英語版の戦いで、エドマンドは敵軍を完膚なきまでに打ち破ったとされる。しかし、エイルズフォード英語版においてエアドリク・ストレオナが再びエドマンドに帰順したことを受け、彼は追撃の手を緩めた[152]。この時点でエドマンドは、自らの支持基盤である五市英語版やウェセックスを超えて広範な地域への影響力を増しており、戦争の帰勢は彼に傾きつつあった[153]。しかし、裏切りを繰り返すエアドリクを再び軍列に加えたこの決断は、ASCにおいて「これほどの大いなる愚行が合意されたことはかつてなかった」と痛烈に批判されている[154]。その後、エドマンドは一時的にウェセックスへと戻った[155]

エアドリクの離反に対する報復として[156]、クヌート軍はエセックス、次いでマーシアへと侵攻した[157]。ASC写本Cによれば、エドマンドは「イングランド全土」から軍勢を召集した。これは単なる動員を超えた広範な支持を背景としたものであり、エドマンドはエセックスへと退却するデーン軍を追跡し、ついに捕捉した[158]ウルフキテル・スニリング率いるイースト・アングリア勢は、五市の支持者らとともにエドマンド軍の主力の一翼を担った。王の軍勢には、ドチェスター司教英語版若エドノス英語版や、おそらく実弟のエドウィ英語版も参陣していた[159]。1016年10月18日に勃発したアッサンダンの戦いは、正午過ぎから深夜近くまで及ぶ異例の激戦となった[160]。高地を確保していたエドマンドは、クヌート軍に対して丘を駆け下りて突撃を仕掛け、デーン人の戦列は崩壊の危機に瀕した[161]。しかし、事前の密約か合戦中の恐怖ゆえか、エアドリクが戦場から逃亡したことが、クヌートの勝利を決定づけることとなった[162]。ASC写本Cは、その凄惨な結果を以下のように伝えている。

王は(敵の)軍勢が内陸へ向かったことを知ると、5度目となるイングランド全軍の結集を行い、これらを追撃してエセックスのアシンドンと呼ばれる丘で捕捉した。両軍はそこで激しく合戦に突入した。その時、太守エアドリクは幾度となく繰り返してきたように、マゴンセテ英語版とともに真っ先に逃走を開始し、こうして主君とイングランドの全人民を裏切った。クヌートは勝利を収め、イングランドの全人民を手中に収めた。そこではエドノス司教、ウルフシゲ院長英語版、エルフリク太守、リンジー太守ゴドウィン、イースト・アングリアのウルフキテル、エゼルウィン太守英語版の息子エゼルウェアルドらが殺害され、すべてのイングランドの貴族たちがそこで潰え去った[154]

和平条約と死

ケンブリッジ大学図書館所蔵の、エドマンド剛勇王の最期を描いた挿絵。

「賛辞作者」によれば、イングランド勢は「土地に詳しかった」ため、夜の闇に紛れて撤退することができたという[163]。エドマンドはアッサンダンでの激戦において、アングロサクソン年代記に列挙されているような多くの同盟者を失うという甚大な打撃を被った[164]。こうした大損害にもかかわらず、エドマンドには依然として戦い続ける強い意志があったようである[165]。「賛辞作者」は、エドマンドが「さらなる強力な軍勢の結集」を期していたと主張している[163]。新たな兵員を確保するため、エドマンドはグロスターシャーへと移動した[166]。『クヌーツドラーパ英語版』は、ダナスコガール(Danaskógar)(おそらくデーンの森英語版を指す)と呼ばれる場所での再戦を伝えており、そこでイングランド軍が虐殺されたと記しているが、その信頼性については疑問の余地がある[167]

激戦の末に両軍は膠着状態に陥り、エアドリク・ストレオナに率いられたとされるイングランドの有力者たちは、王に対して和平の締結を強く求めた。エドマンドはついに、ディアハースト英語版近郊のオールニー英語版クヌートと会見し、その場で人質の交換が行われた[168]

二人の指導者はセヴァーン川の両岸にそれぞれ軍を宿営させ、川の中州にある島へと船で渡って会談に臨んだ[169]。エドマンドとクヌートは互いに友情を宣誓し、デーン軍への支払額を定めた[170]。ASC写本Cはこの合意を以下のように記録している。

諸王はオールニーにて会見し、誓約と宣誓をもって友情を確立し、デーン軍への支払額を定めた。この和解をもって両者は分かれ、エドマンドがウェセックスを、クヌートがマーシアを継承することとなった。[154]

一方、写本Dの記述は異なっている。

諸王はディアハーストの傍らで会見し、盟友にして義兄弟となることを誓約と宣誓によって確立し、デーン軍への支払額を定めた。この和解をもって両者は分かれ、エドマンドがウェセックスを、クヌートが北方の地を継承することとなった。[171]

クヌートとその同盟者は、ウェセックスを除く全イングランドを手中に収めた[172]。おそらくエドマンドの使者が提案したこの合意により、エドマンドは王国の政治的中枢部を保持することとなった[173]。しかし、エドマンドはわずか222日間の統治の後、1016年11月30日に没した。場所はロンドンまたはオックスフォードであった可能性がある[174]。死因は不明であるが、病気や負傷による可能性が考えられる。当時の記述には暗殺を示唆するものは見当たらないが、ノルマン・コンクエストの直後、ブレーメンのアダムは剛勇王が毒殺されたと記した。クヌートには対抗者を暗殺してきた確かな前科があり、マクダーモットはアダムの主張にも一定の妥当性を認めている[175]。12世紀の著述家の中には、便所に座っている際に刺された、あるいは矢で射られたと述べる者もいるが、これらが事実であるとは考えにくい[60]。エドマンドは長引く戦役による疲労が重なって没したのであり、殺害されたことを示す確証はないとするのが現実的であろう[注釈 14]

その後

国王エドマンドのものとされる納骨箱。おそらくエドマンド剛勇王のものである[177]

エドマンドは、サマセットグラストンベリー修道院英語版にある祖父エドガーの墓の傍らに埋葬された[60]。エドマンドの没後15周年に際し、クヌートは彼の墓を訪れ、救済と肉体の復活英語版を象徴する孔雀のクロークをその上に置いた[178]。グラストンベリー修道院は16世紀の修道院解散の際に破壊され、記念碑や地下聖堂の残骸は略奪された可能性があるため、彼の遺骸の所在は定かではない。それらはウィンチェスター大聖堂の「国王エドマンド」の納骨箱に移された可能性がある[177]

クヌートはエドマンドの死後まもなく、全イングランドを確保した[179]。彼は1017年にエアドリク・ストレオナを処刑し、自らの従者をマーシアに配置した[180]。エドマンドの旧来の支持者や家族を扱う際、彼は潜在的な王位簒奪の試みに直面し、追放や処刑で対応した[181]。彼はまたエマ・オブ・ノーマンディーと結婚することで自らの政治的支持を固めたが、これには統治の継続性という利点があり、またノルマンディーが残されたアシリング(王子)たちによる簒奪の試みを支援しないことを確実にする効果もあった[182]。クヌートの王朝は1042年の息子ハーデクヌーズの死まで続き、その後、異論の余地のない最後のアングロ・サクソン王であるエドワード懺悔王のもとでウェセックス家が復興した。彼はノルマン・コンクエストを経て、ウィリアム征服王によって継承されることとなる。

歴史叙述

11世紀(1054年)のアングロサクソン年代記、写本Dの記述。

イアン・ハワード英語版が便宜上『エドマンド剛勇王伝』と呼んでいる、アングロサクソン年代記から派生した散逸史料は、1057年頃にエドマンドに対して「剛勇(アイアンサイド)英語版」、エアドリクに対して「ストレオナ英語版」という異名を付け、ウスターのジョン英語版も自身の歴史書にそれを用いた[183]。11世紀半ばまでには、「剛勇」という異名はすでに広く知られていたはずであり[184]、実際、それはエドマンドの存命中から使われていた可能性さえある[60]。12世紀に入ると、エドマンドに対する評価は向上の一途をたどった[177]。アングロ・ノルマンの年代記作者たちは、しばしば11世紀の史料には見られない新たな情報を挿入した。彼らは一貫してエドマンドを不屈で有能な戦士として描き、マームズベリのウィリアムが最も厳しく批判したエゼルレッドとは鮮やかな対照をなす存在として叙述した[185]。こうした叙述の形成には、古典や民俗伝承からの借用による文学的な肉付けも一般的に行われていた[186]

エドマンドの治世の短さは、長らく学術的な関心の対象外とされる傾向にあった[187]。しかし、彼の指導力の質については、概ね肯定的な歴史的コンセンサスが得られている。ローソン英語版の見解によれば、彼は「おそらく極めて決然とした、熟練した、そして人々を鼓舞する指導者」であり、クヌートに対する彼の抗戦は、その激しさにおいてアルフレッド大王にのみ比肩しうるものであった[60]ステントン英語版は、イングランドの運命はすでに1009年から1012年の時点で決定づけられていたと考えていたが、それでも「エドマンドは、災厄の中でも王を恐るべき存在たらしめる類の名声を備えていた」と評している[188]レヴィ・ローチ英語版は、エゼルレッド無思慮王の伝記を締めくくるにあたり、エドマンドを「ふさわしい後継者」と呼んだ[189]マクダーモット英語版は、エドマンドを以下のように総括している。

エドマンドの治世の短さは彼が見過ごされる原因となったが、彼は受けるべき正当な評価を与えられるべきである。わずか6か月の間に、彼は不屈の意志を備えた稀代の軍事指導者であることを自ら証明した。彼は5つの軍勢を糾合し、ロンドンの包囲を解き、デーン人との合戦において敗北は一度のみであった。その唯一の敗北も、無能さゆえではなく裏切りの結果であった。エドマンドは、新たな法律を制定し、教会を改革し、あるいは国家の軍事構造を変革するほど長くは生きなかった。しかし、彼の短い治世は、数世代にわたってアングロ・サクソン・イングランドから欠落していたもの、すなわち精力的かつ果敢で、成功を収めた戦士王の再登場を目撃したのである。[190]

一部の歴史家は、エドマンドに対してそれほど好意的ではない。ティモシー・ボルトン英語版は、クヌートを老獪で策を弄するライバル、エドマンドをそれに立ち向かう愚直な戦士として対比させている[191]。彼はこの紛争を一面的なものとは結論づけず、むしろイングランド貴族らの揺れ動く決意に左右されたものと見なしている[191]。ハワードによれば、1015年におけるエドマンドの反抗的な態度は非常に深刻であり、エゼルレッドは最終的に「(エドマンドと)同席している際に自らの命の危険を感じる」ほどであったという[192]。ハワードにとって、エドマンドの短い治世はエゼルレッドの治世への「追記に過ぎない」ものであった[193]。ローソンが、父の不幸と対照的なエドマンドの成功は、良好な指導力の下ではアングロ・サクソン国家がいまだ有効に機能しうる証拠であると考えたのに対し、サイモン・ケインズ英語版は、エゼルレッドの失敗の多くは彼個人の能力を超えた要因によるものだったと主張している[注釈 15]

子女

1015年、エドマンドはシゲフェルスの未亡人と結婚した。彼女はエルドギス英語版という名であったと推定されている。彼女との間に、彼は判明している限り2人の子供を儲けたが、いずれもクヌートが自らの地位を確実にするためにイングランドから遠ざけられた[60]

1057年に王位の潜在的な相続人としてイングランドへと帰還したが、その途上で没した[194]。妻アガサ英語版神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世またはドイツ王ハインリヒ3世の親族)との間に3人の子供を儲けた。
エドマンドの孫にあたる。ヘースティングズの戦いの後、イングランド王に選出され、1069年には自らの王位請求のためにノーサンブリアで反乱を率いた[194]。しかしエドガーが王位を実際に奪還することはなく、1125年までに歴史の表舞台から退いた[194][195]
スコットランド王マルカム・キャンモアと結婚し、没後間もなく列聖された[196]。彼女の娘エディス(後にマティルダと改名)は、アングロ・ノルマン人イングランド王ヘンリー1世と結婚した。マティルダとヘンリーの孫にあたるヘンリー2世が1154年以降にイングランド王となったため、エドマンドはスティーヴン以降のすべてのイングランド王の先祖となっている。
エドワードと共にハンガリーに亡命したのち、当地で没した[194]

関連項目

注釈

  1. 1066年のノルマン・コンクエストからかなり後になるまで、王を識別するための数字(〇世)は使用されていなかったため、アングロ・サクソンの王を識別するためにそれを用いるのは時代錯誤である。しかし、エドマンド1世が通常そのように識別されるため、エドマンド剛勇王も時折同様の方法で言及される。
  2. サイモン・ケインズは、エゼルレッドの治世においてイングランドを脅かしたヴァイキング軍が専門性と規模において劇的に拡大したと論じている[17]。しかしエイベルズはこれに同意せず、利用可能な史料はそのような違いを指し示していないと示唆している[18]
  3. オドガーはエルフスリスを通じたエドマンドの曾祖父であった。
  4. 歴史家レヴィ・ローチは、エゼルレッドによるこの慣行の利用を完全に否定することに対して、いくつかの反論を挙げている[49]
  5. 彼と親密であった兄アゼルスタンの家臣団が軍事的な備えをしていたこと[52]、およびエドマンドが軍役年齢に達したばかりであったことは、彼らがノース人に対して戦役に従事していた可能性を示唆している[53]。年代記作者は、エドマンドが参加した不成功に終わった戦役を省略することで、彼を不名誉から救おうとしたのかもしれない[54]。彼は1013年にも父とともに戦った可能性がある[54]
  6. あるいは、息子たちはアイルランドに別の隠れ場所を見つけた可能性もある。エイベルズは、この時点でアゼルスタンがまだ生存していたかどうかにさえ疑念を表明している。[70]
  7. ほとんどの歴史家は、彼女がマームズベリに強制的に送られ、拘束されたことを受け入れている[81]。しかし、デヴィッド・マクダーモットは、アングロ・サクソン社会において未亡人がその富ゆえに虐待されることが認識されていたため、彼女は自らの保護のためにマームズベリに留め置かれた可能性もあると慎重に示唆している[82]
  8. ウィリアムズはエゼルレッドの行為を「もてなしの法に対する重大な違反」と呼び、決して正当化はしていないが、かつての不忠が再燃することへの疑念など、王が決断に至った背景について考えられる説明を提示している[83]。これに対し、ローチはこの事件をエドリックの支配的な影響力によるものとし、「エゼルレッドが、権欲にまみれた強力なエドリックの手中で、ますます操り人形と化していたことを示唆している」と述べる[84]。マクダーモットは、サイモン・ケインズやポーリン・スタッフォード英語版といった歴史家たちの見解に同調し、犠牲者たちがスヴェンに服従した過去や、エゼルレッドを廃位させるためにエドマンドと共謀していた可能性を挙げている[85][85]
  9. エゼルレッドの法典において、未亡人は少なくとも1年間は再婚せずに留まらなければならず、その後は望む通りに結婚できると定められている。したがって、エドマンドのエルドギスとの結婚という決断は不法なものであった[87]
  10. スヴェンの死からエゼルレッドのイングランド帰還までの間に、エドマンドが王位を主張しようとした可能性があるが、それはいかなる年次記録や歴史書にも記録されておらず、いずれにせよ証拠はほとんどない[98]。もしシゲフェルスとモーカーがこの試みにおいてエドマンドと共謀していたならば、彼らの処刑の説明がつくかもしれない[99]
  11. 加害者の正体は不明であるが、デーン人の傭兵、シゲフェルスやモーカーの親族、あるいはエドマンド自身である可能性も含まれる[113]
  12. 「賛辞作者」はデーン軍がのっぽのトルケルに率いられていたと主張しているが、それ以前の『クヌーツドラーパ英語版』との矛盾があり、信憑性は低い[141][142]
  13. アングロサクソン年代記(ASC)では「クレイハンガー」という用語が使われており、現在はトッテナムのクレイヒル・ファームと特定されている[147]
  14. M・K・ローソンによれば、これらの逸話は「間違いなく歴史というよりは民話の類に負うところが大きい」という[60]。ティモシー・ボルトンも、戦役の疲労と負傷によって没した可能性は暗殺と同じくらい十分にあると述べている[172]。マクダーモットは双方の議論を要約した上で、エドマンドはおそらく疲労、負傷、病気が重なった結果として没したのだろうと結論づけている[176]
  15. デーン人によるイングランド征服におけるエゼルレッドの責任の有無については、歴史家の間で議論の対象となっている。背景セクションを参照。

脚注

  1. 1 2 3 4 Weir, Alison (1989). Britain's Royal Families. Vintage. p. 28. ISBN 9780099539735
  2. Harrison 1993, pp. 7–8; Williams 2008, p. 63
  3. Pollington 2001, pp. 81–83; Harrison 1993, p. 8; Hollister 1962, p. 25
  4. Pollington 2001, pp. 85–86, 89–93.
  5. Hollister 1962, pp. 25–30; Abels 1988, pp. 179–180
  6. Williams 1999, pp. 68–71.
  7. Bolton 2017, pp. 28–31.
  8. Lund 2020, pp. 25–27.
  9. Williams 1999, pp. 73–74.
  10. Stenton 1971, p. 321.
  11. Williams 2004; Miller 2011; Foot 2011
  12. Foot 2011; Stenton 1971, pp. 360–363
  13. Stenton 1971, pp. 364–367.
  14. Stenton 1971, pp. 367–372.
  15. Abels 2022, p. 26–27.
  16. Abels 2022, p. 20.
  17. Keynes 2009, p. 206.
  18. Abels 2001, pp. 17–18.
  19. Abels 2001, pp. 20–21.
  20. Abels 2001, p. 22.
  21. Keynes 2009, pp. 206–207.
  22. Keynes 2009, pp. 211–212; Stenton 1971, p. 374;Roach 2016, pp. 317–319
  23. Abels 2001, p. 25.
  24. Swanton 1998, p. xxiii; Whitelock, Douglas & Tucker 1961, p. xi
  25. McDermott 2018, pp. 39–40.
  26. Howard 2013, pp. 30–31.
  27. Roach 2016, p. 119.
  28. Roach 2016, p. 5.
  29. Campbell 1949, pp. xix–xx.
  30. Campbell 1949, p. xxi; Howard 2013, pp. 30–31
  31. Campbell 1949, p. xxi; Howard 2013, pp. 30–31
  32. Poole 1987, pp. 269–298.
  33. Roach 2016, plate 5.
  34. McDermott 2018, p. 73–74.
  35. McDermott 2018, p. 76.
  36. 1 2 Roach 2016, p. 95.
  37. Lawson 2004; Roach 2016, p. 95
  38. McDermott 2018, pp. 82–92; McDermott 2020, p. 338
  39. 1 2 McDermott 2020, p. 339.
  40. McDermott 2018, p. 106–110.
  41. McDermott 2018, p. 107.
  42. 1 2 Roach 2016, pp. 112, 123–132.
  43. Roach 2016, p. 136.
  44. Roach 2016, p. 137.
  45. Roach 2016, pp. 153–174.
  46. Roach 2016, pp. 174–181, 187; McDermott 2018, p. 181
  47. Roach 2016, pp. 191–200.
  48. Roach 2016, pp. 201–203, 221.
  49. Roach 2016, pp. 128–129, 261.
  50. Roach 2016, pp. 253–261.
  51. McDermott 2018, pp. 179–181.
  52. McDermott 2018, pp. 179–180.
  53. McDermott 2018, p. 178.
  54. 1 2 McDermott 2018, p. 181.
  55. Roach 2016, pp. 203–216.
  56. Roach 2016, pp. 211–212.
  57. McDermott 2018, p. 82.
  58. Lavelle 2008, pp. 172–173; McDermott 2016, p. 5; Lawson 2004
  59. McDermott 2018, p. 104.
  60. 1 2 3 4 5 6 7 8 Lawson 2004.
  61. McDermott 2018, pp. 125–134.
  62. Robertson 1956, p. 147.
  63. McDermott 2018, pp. 133–134; McDermott 2020, p. 340
  64. Williams 2003, illustration 8.
  65. Abels 2022, pp. 120–121.
  66. Roach 2016, pp. 288–289.
  67. Whitelock, Douglas & Tucker 1961, p. 92.
  68. Abels 2022, pp. 122–123.
  69. Roach 2016, p. 293.
  70. Abels 2022, p. 123; Roach 2016, p. 293
  71. Williams 1999, p. 99; Higham 1997, p. 60; Bolton 2017, p. 72
  72. Bolton 2017, pp. 72–73; Roach 2016, p. 296
  73. Higham 1997, pp. 56–57; Stafford 1989, p. 67
  74. Williams 2003, p. 115; Williams 2008, p. 107; Roach 2016, pp. 299–300; Lawson 2004
  75. Lavelle 2008, p. 172.
  76. Williams 2003, pp. 115–116; Roach 2016, p. 300
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  78. Lawson 2004; Roach 2016, p. 301
  79. Roach 2016, pp. 301–302; Williams 2003, p. 132
  80. McDermott 2020, p. 341.
  81. Bolton 2017, p. 78; Roach 2016, p. 301; Williams 2003, p. 132
  82. McDermott 2018, pp. 149–151.
  83. Williams 2003, p. 132.
  84. Roach 2016, p. 304.
  85. 1 2 McDermott 2018, pp. 146–148.
  86. Lavelle 2008, pp. 169–172.
  87. McDermott 2018, p. 152.
  88. Williams 2003, p. 133; Williams 1999, p. 100; McDermott 2018, p. 173
  89. McDermott 2018, pp. 153–158.
  90. Mynors, Thomson & Winterbottom 1998, pp. 312–313.
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  92. Higham 1997, p. 62.
  93. Stenton 1971, p. 388, Note 2; McDermott 2018, pp. 160–161, 164
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  95. Whitelock, Douglas & Tucker 1961, p. 94; McDermott 2018, p. 164
  96. Williams 2003, p. 134; McDermott 2018, pp. 164–165
  97. Williams 2003, p. 134
  98. McDermott 2018, pp. 176–177.
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  100. McDermott 2018, p. 160.
  101. Lavelle 2017, pp. 19–20.
  102. Lavelle 2017, pp. 20–21; Roach 2016, p. 306
  103. Lavelle 2017, p. 21; Roach 2016, p. 306
  104. McDermott 2018, pp. 164–165, 184–185; Roach 2016, pp. 306–307; Bolton 2017, p. 67
  105. McDermott 2018, pp. 185–187; Roach 2016, pp. 306–307
  106. McDermott 2018, pp. 185–187; Roach 2016, pp. 306–307
  107. Roach 2016, p. 307.
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