エドウィとは? わかりやすく解説

エドウィ

名前 Edwy

エドウィ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/25 09:48 UTC 版)

エドウィ端麗王
 : Edwy All-Fair
14世紀前半に描かれたエドウィ王の肖像画

先代 エドレッド
次代 エドガー平和王

出生 940年又は941年
死亡 959年10月1日
享年19歳前後
埋葬 ニュー・ミンスター修道院英語版
王室 ウェセックス家
父親 エドマンド1世
母親 エアルギフ・オブ・シャフツベリ英語版
配偶者 エルフギフ英語版
(のちに破棄)
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エドウィEadwig、又はEdwy[1])とは、10世紀後半のアングロサクソン人イングランド王(在位:955年11月3日 - 959年)である。端麗王Eadwig All-Fair[2]とも称される。彼はエドマンド1世エルフギフ王妃英語版(944年没)との間に生まれた長男である。946年5月26日、父王エドマンドが無法者に襲われていた家宰(当時のイングランド王国における役職等についてはen:Dish-bearers and butlers in Anglo-Saxon Englandを参照。)を救おうとした結果自身が殺害されたが、この頃まだエドウィ、エドガー兄弟が幼かったことからエドマンドの弟エドレッドが王位を継承した。エドレッドは病に侵され、未婚のまま30代で亡くなった。

959年にエドレッド王が亡くなったのち、王位は15歳ほどのエドウィが継承した。エドウィの治世の初期には有力な聖職者であるダンスタン(当時のグランストンベリー修道院長英語版。その後カンタベリー大司教に就任する。)と対立し、彼をフランドルに追放する結果に至った。これによりエドウィは修道院勢力から敵とみなされる結果となったが、大半の歴史家たちはエドウィ王のこの名声について不当なものだと考えている。956年中、彼は土地寄進に関する勅許文書を60以上も発布しており、この年間発布数は12世紀以前のどのヨーロッパ諸侯も及ばない規模であった。このことは、支持を買おうとしたもの、あるいは前王の時代から続く有力者層を犠牲にして自らの寵臣を厚遇するためのものと見る歴史家もいる。

957年、王国は分割され、エドウィはテムズ川以南を保持し、弟エドガーが北方を治める王となった。この分割が治世当初から計画されていたのか、それともエドウィの敵対者による反乱の結果なのかについて、歴史家の意見は分かれている。翌958年にはカンタベリー大司教オダ英語版が、エドウィ王とエルフギフ英語版を近親関係にあるとの理由で婚約の無効化を宣言し、離婚する結果となった。エドウィが959年に死去すると、弟エドガーが全イングランドを継承した。

ベネディクト会修道改革運動英語版は、エドガー王の強力な支援のもとでその治世に隆盛を迎え、修道士たちは彼を称賛し、対してエドウィ王を無責任かつ無能な王と断じた。こうした見解は20世紀後半まで一般的に受け入れられていたが、21世紀に入るとエドウィを擁護する歴史家も現れた。一方で、彼の人物像や治世の出来事は、不確実で矛盾した証拠しか残っていないため依然として明瞭ではないとする見方もある。

背景

9世紀、アングロサクソン時代のイングランド英語版はヴァイキングの襲撃をますます受けるようになり、865年にはヴァイキングの大軍、『大異教軍』の侵入に至った。878年までに、このヴァイキング軍団はノーサンブリアイースト・アングリアマーシアを制圧し、ウェセックスも征服する勢いであったが、その年にウェセックスの指導者アルフレッド大王の下でウェセックス軍がエディントンの戦い英語版でヴァイキング相手に決定的な勝利を収めた。883年までに、マーシアの領主エゼルレッド英語版はアルフレッド大王の宗主権を受け入れ、880年代から890年代にかけてアングロサクソン人はウェセックスと西マーシアを支配したが、イングランドの残りの部分はヴァイキングの支配下に置かれたままであった[3]。 アルフレッドは899年に死去し、その子エドワード長兄王が継いだ。910年代、エドワードと彼の姉でありエゼルレッドの未亡人であった『マーシアの貴婦人』ことエセルフリーダは、ヴァイキング支配下の東マーシアとイースト・アングリアを征服した。918年にエセルフレッドが没すると、マーシア人はその娘エルフウィン英語版を2代目「マーシアの貴婦人」としたが、エドワードは彼女を自身の庇護下に置き、マーシアの完全支配を確立した。924年にエドワード王は崩御したが、この時ウェセックス王国ハンバー川以南すべてを支配下に置いていた[4]

エドワードの後を継いだのは長子アゼルスタンである。彼は最初はマーシアの王にすぎなかった可能性があるが、翌年までには父の領土全体を統治するに至った。927年にはノーサンブリアを征服し、初めてイングランド全土の王となった[5]。彼は939年10月に死去し、異母弟でエドウィの父でもあるエドマンドが王位を継いだ。エドマンドはイングランド全土の王位を継いだ最初の王だったが、即位直後にダブリン王アンラフ・グスフリスソン英語版が海を渡ってイングランドに来襲し、ヨーク王国(南ノーサンブリアの王国)を征服したことで北部の支配を失った。さらに彼はマーシアに侵攻し、エドマンドは北東マーシアの割譲を強いられた。しかし941年にグスリフソンが死去した。それから944年まで、の間、ヨーク王国はヴァイキングの2人の王、アンラフ・シトリックソン英語版ラグナル・グスフリスソン英語版の支配下にあったが、この年にエドマンドは彼らを追放し、イングランド全土の支配を回復した。946年5月26日、エドマンドはグロスターの街パックルチャーチ英語版で、無法者による襲撃から侍臣を守ろうとして刺殺された。当時、彼の息子エドウィとエドガーは幼少だったため、叔父のエドレッドが王位を継いだ[6]

エドマンドと同様に、エドレッドも即位時にはイングランド全土の王権を継いだが、まもなくヨーク民衆がヴァイキングの指導者を王として迎え入れ、支配を失った。その後の経緯は明確でないが、ヨーク王国はエドレッド、アンラフ・シトリックソン、エイリーク血斧王の間で断続的に統治され、最終的にエイリークが現地領主たちに追放されると、ノーサンブリアは恒久的にイングランドの一部となった。エドレッドはその後、ノーサンブリア北部のバンバラを治めていたアングロサクソン人支配者オスルフ1世英語版をノーサンブリア全土の太守に任じた[7]。エドレッドは955年11月23日に死去し、15歳前後のエドウィが即位した[1]。結局のところ、エドウィ王は9世紀初頭以来、差し迫った外敵の侵入を受けなかった最初のイングランド王となったが[8]、彼の治世がそのような時代になるとは当時誰も知り得なかったことであり、エドレッド王は遺言と共に1600ポンド[注釈 1]もの財を残しており、飢饉から民を救うため、あるいは異教徒の軍から平和を買うためにこの金を用いるよう遺しており、このことからイングランドが依然として安全でないと考えていたことを示している[10]

家族と幼少期

エドウィは940年ごろに、エドマンドと最初の妃エルフギフ英語版の長男として生まれた[1]。彼女とその母ウィンフレド英語版シャフツベリー修道院英語版の支援者であり、エルフギフはそこで埋葬されて後に聖人として崇敬された[11]。マーシア太守(エアルドルマン)英語版エルフヘレ英語版は王家の親族であることを認められており、その姉妹は有力者エルフリック・チルド英語版と結婚した。956年の勅書では、エルフリックはエドウィのadoptivus parens(養父)と記されている。この語は通常、婚姻によってエドウィと姻戚関係にあった立場を意味すると歴史家は解釈しているが、彼がエドウィの養育に関わった可能性もある[12]。エドウィと弟エドガーが同時代の史料に現れるのは955年になってからであり、この年に初めて勅書に署名していることから、若年期には定期的に宮廷に出仕していなかったことが示唆される[1]。エドレッド王は生涯独身であり、甥たちの王位継承権に対する態度は不明である。エドウィはエドレッドの勅書にæthelingまたはcliton(それぞれ古英語とラテン語で「王子」を意味する)として署名しており、エドガーにも同じ称号を与えるものがある一方で、彼をエドウィの「兄弟」と記すものもある[13]

治世

エドウィの治世に関する証拠は曖昧で判然とせず、彼の人物像や統治の政治状況について歴史家の見解は大きく分かれている。主要な論点は、958年に解消された彼の結婚をめぐる問題と、957年に行われた王国の分割、すなわち、エドウィがテムズ川以南のイングランドを保持し、弟であるエドガーがその北方の地の王となったことに関してである[14]

エドウィの婚約

956年1月下旬ごろ、エドウィはキングストン・アポン・テムズで戴冠した。儀式ののち、カンタベリー大司教オダ英語版グラストンベリー修道院長英語版ダンスタン(後のカンタベリー大司教となる人物である)らを含む、王と主要な大貴族のための宴が催された。ダンスタンの最初期の聖人伝作者英語版で、自らを「B」としか名乗らない人物によれば、良家の女性とその成人した娘が、いずれか一方をエドウィグと結婚させようとして「みだらな申し出」で彼に迫り、エドウィは宴を抜けて「これらの女(売女)を愛撫」したため、列席の貴族たちを憤慨させたという。オダ大司教は王を宴に連れ戻すべきだと促したが、ほとんどの貴族は王の不興を恐れ、王の怒りに立ち向かう勇気を持ったのはダンスタンと、その親族であるリッチフィールド司教英語版キネシジ英語版だけであった[15]。また、Bは以下のように続けている。

貴族らの求めに従い2人が部屋へ入ると、金銀の細工ときらめく宝玉で飾られた王冠は、王の頭から少し離れた床にぞんざいに投げ出され、王は二人の女のあいだで、まるで穢れた豚小屋に身を転がすかのごとく、はなはだ不品行に興じていた。

彼らは王に言った――「諸卿の名において申し上げます。直ちに広間へお戻りになり、しかるべき御座につかれ、この慶事にあたり重臣たちの前にお姿をお見せください」と。

ダンスタンはまず愚かな女たちをたしなめ、王がなお起きようとしないのを見るや、手を差し入れて娼婦らと共にあった寝台から引き離し、冠を戴かせ、そのまま王の供のもとへと連れ戻した――たとえ力ずくであっても、女たちから引き剥がして[16]

「B」は女性の一人をエゼルギフ(Æthelgifu)(後のエルフギフ王妃英語版の母)と名指ししているが、娘の名は記していない[17]。彼の記述の狙いは二つあった。ひとつはダンスタンを好意的に描き出すこと、もうひとつはエドウィグが戴冠の宴で王らしからぬ行動をとったと示して、王位にふさわしくない人物であることを印象づけることである[18]。その後、ダンスタンはイングランドから追放される。「B」はこれを、エセルギフの策謀によるものとし、さらにダンスタンの弟子たちでさえ彼に背いたと述べている。ダンスタンに敵対した人物の中には、おそらくエゼルウォルド英語版アビンドン修道院英語版の院長、のちのウィンチェスター司教英語版)も含まれていた[19]。エゼルウォルドはこの結婚を支持し、アビンドンの文書でエルフギフを「王の妻」と記しており、また彼女は遺言で彼に所領を遺贈さえしている[20]

「B」の記述は歴史家マイケル・ウッド英語版に受け入れられており、彼はエドウィを「きわめて不快な人物(deeply unpleasant)」と評している[21]。しかし大多数の歴史家は懐疑的である。エルフギフはウェセックス最上層の貴族に属しており、エドガー即位後も良好な関係にあったように見える。エドガーは、彼女に財産を与える勅許において、彼女を親族と呼んでいる[22]。歴史家ロリー・ネイスミスは、戴冠の宴におけるダンスタンの介入談を「エドウィ、エルフギフ、そしてその母の評判をおとしめるために作られた宣伝にほかならない」と見ている[23]フランク・ステントン英語版はこの物語について次のように述べている。

この記述が記された時点で既に、この話はより確かな証拠と相反する醜聞めいた色合いを帯びていた。たとえば、二人の女性のうち若い方が王妃となり、イングランド有数の修道院の一つで敬われていたことは知られている。ニュー・ミンスター英語版の『生者と死者の書英語版』には、エドウィ王の王妃であるエルフギフの名が「神への愛のためにこの聖なる場所を選び、施しの贈り物によって共同体の祈りに自らを委ねた『高名な女性たち』」の一覧に記されている。最も高潔な聖職者たちも、二人の女性が宮廷に揃っていた時に出仕することをいとわなかった。この逸話から確実に推論できるのは、ダンスタンが追放されたのは、王と、のちに王妃となった女性、そしてその母を侮辱したためである可能性が高い、という一点に尽きる[24]

この結婚は、エドウィが王としての地位を強化しようとする取り組みの一環として政治的に重要であり[25]、それによってエドガーの周囲の人々には、王位継承の見込みを絶たれかねない「脅威」と映った可能性がある[26]。『アングロ・サクソン年代記』の「D」版(ASC D)によれば、958年に「オダ大司教は、近親関係が近すぎるためにエドウィ王とエルフギフを引き離した」という[27]。両者の正確な関係は明らかではないが、エドウィの妻は、遺言でエゼルウェアルドを兄と呼んだエルフギフと同定されている。また、そのエセルウェアドは、年代記作者エゼルウェアルド英語版と同一人物とされ、この人物はエゼルレッド1世の子孫であった。そうであれば、エルフギフはエドウィグの「三従兄弟の一世代違い(third cousin once removed)」にあたる[28][注釈 2]

サイモン・ケインズ英語版もまた、戴冠の宴に関する「B」の記述に疑問を呈している。彼によれば、オダ大司教は教会法に反するという理由でこの結婚に異議を唱えた可能性があり、「B」の物語はダンスタンとキネシジが結婚を思いとどまらせようとして失敗した試みに基づいて、それに派手に脚色を加えたものかもしれないという[1]マイケル・ウィンターボトム英語版マイケル・ラピッジ英語版の見解では、「B」の宴に関する記述は、オダが教会法の手続きを実行したこと自体を派手に脚色した作り話にすぎない[34]。一方で、ショーン・ミラーは、結婚に対する異議は宗教的理由ではなく政治的理由によるものだったと主張している[35]。さらにポーリン・スタッフォード英語版は、婚姻の解消はエドガーの成功した反乱の結果であり、そのためエドウィが大きく弱体化し、敵対者たちが彼に対して行動を起こせるようになったからだと見ている[36]

ブリュスフェルト英語版は、その聖人伝『聖オズワルド伝(Life of St Oswald)』において、エドウィ王について次のように述べている。エドウィ王は、「放縦な若者にありがちなように、邪悪な生活を送り、別の女をまるで自分の妻のように愛していた。」彼はその女と駆け落ちしたが、オズワルドの叔父であるオダが馬に乗って彼女の滞在していた家に赴き、彼女を捕らえて国外へ連れ出した。その後オダはエドウィに邪悪な行いをやめるよう説き、以来エドウィ王は「悔恨の面持ちでオダの前にひざまずいた。」一部の歴史家はこの逸話を、エドウィの結婚に関する物語の別伝とみなしている[37]。しかしサイモン・ケインズは、エドウィと女性たちにまつわる複数の逸話が混同された可能性があると考えている[1]

ほとんどの歴史家は、エドウィとエルフギフの結婚が解消されたことを認識している。しかしフランク・ステントン英語版は例外であった。彼は、この婚姻解消の根拠となる史料は『アングロ・サクソン年代記』の「D」版のみであり、これは11世紀後半から12世紀初頭にかけて成立した北部の文書であると指摘した[注釈 3]。ステントンの見解では、この「D」版は「すでに伝説的脚色が加わりやすい題材に対して、あまりにも時代的に遅く成立したため、権威ある史料とは言えない」というものであった[39]

治世初期 (955年 – 957年)

エドウィ王の叔父で先王であったエドレッドは健康状態が悪く、晩年にはそれがさらに悪化したため、母のエアドギフ、オダ大司教、グラストンベリーの修道院長ダンスタン、ウィンチェスター司教に任命されたエルフシゲ英語版、そして「半王(Half-King)」と称されるほど強大な権力を持ったアゼルスタン太守といった有力者に依存していた[7]。エドレッド治世末の2年間に残された勅許状の大半はグラストンベリー修道院英語版で作成されたものであり、しかもそれらのほとんどに王自身の署名がないことから、病状が重く執務できなかった時期にはダンスタンが王の名で勅許を発行する権限を与えられていたことが示唆される[40]。 それゆえにエドウィが王位を継いだ時、宮廷は強力な派閥に支配されていた[41]。彼は即位当初から前政権からの独立を示そうと決意していたようである[1]。歴史家ベン・スヌークは「兄のエドガーとは異なり、エドウィは明らかに自分の意志で行動する人物であった。即位してすぐに、彼はそのような体制を終わらせる行動に出た」と述べている[42]。しかしケインズによれば、「エドウィとエドガーが本当に独立した行動をとれたのか、それとも依然として宮廷内の既得権益に左右されていたのかは不明である」という[43]

エドレッドはウィンチェスターオールド・ミンスター英語版に埋葬されたが、彼の遺言によればそこは彼が望んだ場所ではなかったらしい[注釈 4]。 おそらく彼は、グラストンベリーのような改革派ベネディクト会修道院に埋葬されることを望んでいたが、エドウィは、彼の墓がダンスタンら反対派の集結点になることを避けたかったのかもしれない[45]。エドレッドの遺言の主な受益者は母エアドギフであり、エドウィの名は記されていなかった[46]。しかし彼女は後に「全財産を奪われた」と嘆いており、これはエドウィの即位の際にその権力を疎まれて財産を没収されたためかもしれない[47]。エアドギフは、息子エドマンド王およびエドレッド王の治世ではしばしば勅許状に署名していたが、エドウィの時代には一度しか署名していない。一方、弟エドガーは955年から957年の間に宮廷では主要貴族として活動しており、数多くの勅許状に署名していた[48]。アゼルスタン半王の権力は強大で、エドウィは彼を排除することはできなかったが、956年にはアゼルスタンの管轄地域の一部を担当する新たな太守を複数任命し、その中にはアゼルスタンの長男エゼルワルド英語版も含まれていた。これはアゼルスタン太守の勢力範囲における再編の前触れであった可能性がある[1]

歴史家たちはしばしばエドウィを無責任または無能と評しており、その根拠として956年に彼が異例の数の勅許を発行したことが挙げられる[49]。この年の土地寄進は60件あまりにのぼり、全ての真正アングロサクソン勅許状の約5%を占めているが、12世紀以前にヨーロッパの他の支配者でこれに匹敵する年間件数を記録した例は知られていない[50]。寄進は主に俗人に向けられており、一部では教会領の払下げが行われた可能性もあるが、元来修道院所有であったと確認できる土地は少ない。歴史家たちはしばしば、彼が支持を買うために王領を手放したと推測するが、それを裏付ける証拠は乏しい。彼はむしろ特権を販売していたのかもしれない。すなわち、領主が既に世襲財産(en:folkland、食糧・地代・役務を王権に負担する義務を負う)として所有していた土地を、義務から解放された書契地(en:bookland)に転換する権利を与えることで、短期的には資金を得たが、長期的には王権の収入を減らしてしまった可能性がある。 しかし多くの土地は直近に王の勅許状の対象となっており、すでに書契地であったはずであることから、一部では領地を押収して寵臣に売却または与えた可能性も示唆される[1]アン・ウィリアムズ英語版は、大量の勅許発行はエドウィが支持を買わねばならなかったことを示しているかもしれないが、その背景については確実なことは分からないと述べている[51]。王権の富は非常に大きかったため、これらの土地寄進が王家の資源を大幅に減らした形跡は見られない[52]

エドウィに対する敵意の一因は、彼が友人たち、特にエルフヘレを登用し、ダンスタンのような旧勢力を犠牲にしたことであろう[53]。エルフヘレとその兄弟は複数の王から親族と認められていたが、その具体的な関係は不明である。彼らはエドウィに近しく、長兄エルフヘアは侍従長に任じられた。エルフヘアとその妻エルフスウィズもまた、エドウィからの厚遇を受けている。エルフヘレ自身は、983年に没するまで最有力の貴族となり、956年にはマーシアの太守に任命された[54]。 エドウィ即位の最初の年に任命された他の太守には、マーシアのアゼルスタン・ロタ英語版や、イーストアングリアのアゼルスタン半王の子エゼルワルドがいる。また、後にモルドンの戦いで英雄となるビュルトノス英語版はエセックス太守に任じられた[55]。これらはいずれも有力家系出身者への妥当な任命であり、エドガーが即位した後も維持された。しかしエルフヘレ家と、アゼルスタン半王の子エゼルウィン英語版家の対立はやがて国内を不安定化させ、エドガー死後には内戦に発展した[56]

エドマンドおよびエドレッドの勅許状に記された王号はさまざまであったが、もっとも一般的なのは「イングランド人の王」であった。エドウィの勅許(957年の王国分割以前に発行されたもの)では、「アングロ・サクソン人の王」「イングランド人の王」「アルビオンの王」「ブリテン全土の王」といった称号が使い分けられている[57]。オダの署名はエドマンドやエドレッドの治世においては王の署名より長く誇らしげなものであったが、エドウィの治世になると縮減され、もはや君主を凌ぐことはなくなった[58]

王国の分裂 (957年 – 959年)

957年の夏、王国は分割されて南部はエドウィが、北部はエドガーが統治することとなり、テムズ川がその境界となった[1]。「B」によれば、「エドウィ王はテムズ川以北の人々から完全に見捨てられた。彼らは王が信託された権力を軽率に行使したことを軽蔑した。賢明で思慮深い者を虚しい憎悪の念から排除し、自分と同じような無知な者で気に入った者を代わりに登用した」という[59]

20世紀末までは、多くの歴史家がこの分割という結果はエドウィの無能な統治のせいで起きた出来事だと非難してきた[60]。1889年に刊行された初版『英国人名辞典』において、19⁻20世紀の歴史家ウィリアム・ハント英語版はエドウィグ王の項目で、「エドウィは愚かに政務を行い、ウェセックス人を優遇したためにマーシア人とノーサンブリア人を反乱に追いやった」と記している[61]。1922年には修道士J・アーミテージ・ロビンソン英語版が、この分割をエドウィグの失政に対するマーシア人の反乱の結果であるという意見を示し[62]、1984年には歴史家ヘンリー・ロイン英語版が、この分割は「責任ある聖職者の意見をエドウィが疎外・無視した」ために起きたと述べた[63]。また、ステントンは、この分割は「単なる無責任さ」によってエドウィが領国の大半を失ったためであり、ウェセックスの友人たちとばかり付き合って遠隔地の貴族層との関係を失ったのだろうと意見している[64]。21世紀に入ると、クリストファー・ルイスは、この分割を「危険なほど不安定な政権と深刻な危機に陥った宮廷」に対する解決策とみなし[26]、ショーン・ミラーとロリー・ネイスミスは、旧勢力を犠牲にして強力な新派閥を押し上げようとしたが失敗した試みが原因だと述べている[65]

一方で、分割はエドウィの失政が原因ではないとみなす歴史家もいる[66]。『アングロ・サクソン年代記』の4つの写本はいずれも王国分割についての記述を記しているが、いずれもそれをエドガーを、マーシア王位を継承した「後継者」として書き、まるで通常の、予定された出来事であったかのように扱っている。D写本とF写本は分割を955年とし、B写本とC写本は正しく957年とする[67]バーバラ・ヨーク英語版は、写本間での年代の違いは、もともとエドガーが副王としてマーシアを治めることが予定されていたが、実際に行動できるのは14歳に達した957年からだったためではないかとみている。956年のウスター勅許状 S 633[注釈 5]は、エドガーをregulus(副王)と記している。[68] 957年から959年の勅許状によれば、この分割は平和的な政治的合意であったことが示唆される。テムズ以南を管轄する太守や司教はエドウィの下に残り、以北の者はエドガーに仕えたが、その中にはエドウィが登用した人物も含まれていた。分割前にエドウィの勅許状に署名していた従士(thegn)のほとんども、その後も忠実であった[69]。エドガーが分割前から勅許に頻繁に署名していたこと、またエドウィが任命した太守がエドガー治世でも留任したことは、継続性の証拠であり、王国の分割がエドウィに対するクーデターではなかったことを示している[70]。ケインズは、王国分割について両方の見解が妥当だと考えている。すなわち、テムズ以北のエドウィグ統治への不満が原因だった可能性もあるが、一方でその時代には政治的統一が自明の前提ではなく、もともと兄弟が王権を分かち合うことが予定されていた可能性もあるという[1]

王国の分割後も、エドウィは一定の優越性を保持していたようである。彼の勅許状では「イングランド人の王」と称されており、エドガーがこの称号を用いるのは稀で、主に「マーシア人の王」、時に「ノーサンブリア人とブリトン人の王」と称されていた[71]。すべての貨幣は、マーシアで鋳造されたものを含めてエドウィの名で発行されており、歴史家フレデリック・ビッグズは、もしエドガーがマーシアを実効支配していたなら、貨幣の支配をエドウィに委ねるはずがないと指摘する。ビッグズは、この分割を初期アングロサクソンに見られた共同統治の伝統の存続と見ている[72]。修道院改革派、特にエゼルウォルドらは、統一的な修道生活を望んでいたため分割に反対し、王ごとに異なる方針が取られることを懸念した。エゼルウォルドはエドウィを「王国を分裂させた」と批判し、エドウィ王の死後イングランド全土の王となった弟エドガーを「国を一つにまとめた」と称賛している[73]

国の分割統治を始めたエドウィ・エドガー兄弟間に対立があったとする証拠はないが、意見の不一致はあったという。エドガー王はマーシア王となるとすぐにダンスタンを亡命から呼び戻し、959年にイングランド王位を継いだ際にはエドウィが没収した祖母の財産を返還しているが、これはエドウィの扱いへの不満を示しているとされる[74]。アゼルスタン半王は分割の頃に隠居したようで、彼はエドガーの養父であったため、この時期に責任を譲るのが適切だと考えたのかもしれない[1]。エルフヘレはマーシア太守であったため、エドウィによって任命されていたにもかかわらず分割後はエドガーの下で仕えることとなり、彼に仕える太守たちの中で最上位の存在となった[75]

王国分割後のエドウィの動静についてはあまり知られていない。957年には南東部にエルフリク(Ælfric)という人物が太守に任じられたが、おそらく彼は958年に死去している[1]。分割前には通常、世俗貴族の中で半王に次ぐ地位で署名していた西部地方の太守エドムンド(Eadmund)は、分割後はエドウィの勅許で筆頭太守にのし上がった。しかしまもなく、侍従長から昇進してウェセックス中部の太守となったエルフヘレの兄エルフヘアが筆頭署名者となり、エドウィの死の直前には世俗署名の第一位に立っていた[76]

Charter S 594: 956年にエドウィが親族エルフウィンに与えた勅許状

勅許状

10世紀中葉の勅許状の大半は「古文書学的主流様式(diplomatic mainstream)」と呼ばれる書式で作成されたが、他にも2つの伝統的な書式を踏襲した勅許状のスタイルが存在した。ひとつはダンスタンに関連する「ダンスタンB型勅許状」であり、もうひとつはウスター司教英語版ケンワルド英語版に結びつけられる「頭韻勅許状(alliterative charters)」である。エドウィの治世中に発布された勅許状のほとんどすべてが主流様式で作成されたものであった。ダンスタンB型はエドレッドおよびエドガーの治世に属するものは存在するが、エドウィのものは皆無であり、頭韻勅許状もエドウィのものとしてはただ一通、ウスター大聖堂への寄進を記したS 633号勅許が知られるのみである[77]。彼の勅許状は、おそらく930年代から存在していたウェセックス家の中央書記局で起草されたものであろう[78]。現存する勅許状は約90通にのぼり、これは非常に多い数であるが、それらの分析は限定的である。というのも、そのうち原本として残っているのは7通のみで、残りは後世の写本だからである[79]。956年に作成された60通ほどの勅許状は、主として4つの機会に集中して発給されたとみられる。すなわち、1月下旬の戴冠式、2月13日頃、日付不詳のある第三の機会、そして11月29日頃である[1][注釈 6]

貨幣

エドウィ王の銀ペニー(表面)。銘文は'EADǷIG REX'
HT1型の裏面。銘文「HERIGER MO」。Herigerはヨークの造幣人[81]

後期アングロサクソン期のイングランドで流通していた唯一の貨幣は銀製のペニー硬貨英語版であった[82]。 エドウィ王治世の「水平型(Horizontal)」貨幣(裏面に造幣人名を横書きするタイプ)は、エドレッド王の時代から続く3つの基本的な水平型 — HT1、HR1、HR2 — を踏襲していた[注釈 7]。これに加えていくつかの派生型も存在した。HT1型貨幣はミッドランズ地方と南部で盛んに鋳造され、約35人の造幣人によって作られ、そのうち17人は鋳造都市名を刻印した。短い治世にもかかわらず、ヨークの造幣人2人によるHT1型貨幣の数は予想外に多く、さらにイングランド北東部の他の13人の造幣人も同型を製造していた[84]

エドウィの治世にはいくつかの類型的発展も見られる。とくにロンドンでは「王冠付胸像型(Bust Crowned)」硬貨が復活し、表面には粗雑ながら国王の肖像が描かれた。また南西部では「周縁十字型(Circumscription Cross)」が登場し、両面中央に十字を置き、銘文を縁に沿って刻んだ。これらはいずれもごく少数しか作られなかったが、後のエドガー治世で広く普及する先駆けとなった[85]。イーストアングリアの造幣人は、アゼルスタン王の治世以来「王冠付胸像型」を用いていたが、エドウィの時代には一時的に「水平型」に切り替えていた可能性がある[86]。貨幣の重量は、エドワード長兄王の治世以来続いていた緩やかな減少傾向を保っていた[87]。銀の品位は概ね85~95%と高水準が維持されていたが、エドレッド王期と同様に、やや純度の低いものも一部に存在した[88]

エドウィの治世において、エドガー名義の貨幣が鋳造された証拠はなく、マーシアやノーサンブリアでのエドウィ名義の貨幣は、もし957–959年にエドガー名義の貨幣が鋳造されていたなら想定されるよりも遥かに多い。これは、治世を通じてすべての貨幣がエドウィ名義で発行されていたことを示している[89]

信仰

エドガー王の治世には、ベネディクト会改革運動英語版が進展し、不淫や私有財産の禁止といった厳格な規律に従う修道院が宗教と政治において支配的地位を占めるようになった。エドガー以前の王たちもその理念に同調してはいたが、ウィンチェスター司教エゼルウォルド英語版やその周囲の人々のように、「それこそが唯一価値のある宗教生活であり、財産を所有し、多くは妻帯していた世俗聖職者(clerks)は堕落して不道徳である」とまでは考えていなかった。エドマンド王やエドレッド王と同様に、エドウィもベネディクト会修道士の共同体と世俗聖職者の共同体の双方に寄進を行っていた[90]。しかし彼は後世、修道院を荒らして世俗聖職者を優遇した「改革運動の敵」として描かれるようになった。12世紀のベネディクト会年代記作者マルムズベリーのウィリアムによれば、次のように記されている。

やがて、哀れな追従者たちの支持を受けて、[エドウィは]イングランド全土の修道士たちを不当な災厄へと陥れた。まず彼らの収入による支えを奪い、次いで彼らを追放したのである。修道士たちの長であったダンスタン自身も国外に追われ、フランドルへ送られた。その時代、すべての修道院は荒れ果て、惨めな有様を呈していた。マルムズベリー修道院でさえ、二百七十年以上もの間修道士たちが住まっていたのに、彼はそこを聖職者(世俗聖職者)のための売淫宿に変えてしまった。だが、我らの創造者にして再創造者である主イエスよ、われらの歪みを正す巧みな技工師よ、あなたはこのような乱脈で放浪的な者たちを用い、長年埋もれていたあなたの宝を顕し、人々の知るところとされた──すなわち聖アルドヘルム英語版の遺体のことである。彼ら自身が地から掘り起こし、聖廟に安置したのだ。その聖職者たちの威信は、さらに王の寛大さによって高められた。王は、規模も位置もきわめて適した領地をこの聖人に与えたのである。とはいえ、このように時を隔てた今でさえ、若く愚かで、常にその愛妾の助言に心を包囲されていた王が、他の修道院に対してどれほど残酷に振る舞ったかを思い起こすのは恐ろしいことである。[91]

エドウィは数多くの勅許状においてエゼルウォルドのアビンドン修道院に土地を寄進しており、そのため後世にはアビンドンの修道士たちから最大の王室恩人の一人とみなされるようになった。また993年の勅許状でも、彼はアビンドンの恩恵者として名を記されている。新しい教会堂の建設はエドレッドによって始められ、エドガーの治世に完成したが、エドウィがアビンドンに教会建設のための林を与えた勅許状は、その工事が彼の治世中も続いていたことを示している[92]。 エゼルウォルドは結婚問題をめぐってオダ大司教やダンスタンに反対し、エドウィを支持した。またエドウィは、おそらく弟エドガーをエゼルウォルドに託し、教育させたと考えられる[93]。958年、エドガーが世俗聖職者(世襲財産を所有し、多くは妻帯していた聖職者)の共同体であるチェスターの聖ウェルブルフ大教会英語版に領地を与えたことからも分かるように、この時期には宗教改革は彼やその顧問団にとって重要な課題ではなかった。しかし970年代になると、ベネディクト会改革派は950年代の歴史を書き換え、エドガーの即位を「不適格なエドウィ王の統治に対する改革運動の勝利」として描き出した[94]。エゼルウォルドは著作の中で、エドウィが「幼さゆえの無知から[…]聖なる教会の土地を強欲な異邦人たちに分け与えた」と非難している[95]。しかし実際には、エドウィが修道院に行った寄進の数は十分に多く、彼が修道院に敵対的であったとは考えにくい。彼が「修道院の敵」とされたのは、彼が個人的にダンスタンを敵視したためと思われる[96]。初期の史料(ダンスタン伝の作者「B」やビルスフェルト)もエドウィを批判しているが、教会の財産を荒らしたことを罪状には挙げていない。さらに一部の修道院の偽文書作成者は、自らの修道院への寄進者としてエドウィを選んでおり、彼が修道院の支援者としてもっともらしく考えられていたことを示している[97]

マルムズベリーやアビンドン以外にも、エドウィ王はウスター・ミンスター英語版バンプトン・ミンスター英語版に土地を寄進した[98]。彼がバリ・セント・エドマンズ修道院英語版に与えたベックルズ英語版エルムスウェル英語版の領地は、後の『ドゥームズデイ・ブック』の時点でも修道院の手に残っていた[99]。彼はまた、ロンドン司教英語版カンタベリー大司教にも土地を与えている[100]サウスウェル・ミンスター英語版は956年にエドウィがドーチェスター司教英語版オスキテル英語版に与えた大規模な領地を基礎として創建された[101][注釈 8]

エドウィの親しい同盟者の中には、951年にエドレッドによってウィンチェスター司教に任じられたエルフシゲ(Ælfsige)がいた。エルフシゲは裕福な妻帯者で息子がおり、ウェセックス貴族との強い繋がりを持っていた[103]。彼はエルフヘレの兄弟エルフヘアを「わが最愛の友」と呼び、自らの息子の後見人に任じた[104]。またエルフシゲは、エドウィ支持者の一人ウルフリク・クフィング(Wulfric Cufing)とも親しく、遺言において彼に領地を遺贈した[105]。しかしエルフシゲの生活様式は改革派に忌み嫌われた。彼はオダ大司教の敵であり、ビルスフェルトは、エルフシゲがオダの死を嘲笑し、その墓を杖で打ったと非難している[106]。958年にオダが死ぬと、エドウィはエルフシゲをカンタベリー大司教に任命したが、彼はローマにパリウムを受け取りに向かう途中、アルプス山脈中で凍死してしまった[107]。その後エドウィグはウェルズ司教英語版ビュルスヘルム英語版をカンタベリーに転任させたが、エドガーが即位すると彼を解任し、代わってダンスタンを任命した[108]

959年10月1日、エドウィ王は崩御した。遺体はウィンチェスターのニュー・ミンスター英語版エドワード長兄王によって王室霊廟として建立された)に埋葬された。アルフレッド大王とエドワード長兄王がこの地に埋葬されているが、その後ニュー・ミンスターに埋葬された王はエドウィのみであり、彼の治世は名高い先祖たちと結び付けられることになった[109]

名声

「B」によるエドウィへの非難は、後世の評価に大きな影響を及ぼした[110]。 彼の死後ほどなくして、彼の治世に対する評判は厳しいものとなり、歴史家シャシ・ジャヤクマール(Shashi Jayakumar)の見解によれば、それは「一種のダムナティオ・メモリアエ(記憶の破壊)」であった[111]。聖ダンスタンおよび聖オズワルド英語版の伝記におけるエドウィへの敵対的描写は、ノルマン・コンクエスト後の聖人伝作者や修道院年代記作者たちによって踏襲された[1]ウスターのジョン英語版は、「イングランド王エドウィは、委ねられた統治において愚かに振る舞ったため、マーシア人とノーサンブリア人から軽蔑され、見捨てられた」[112]と記し、 マルムズベリーのウィリアムにとって彼は「放蕩な若者であり、自らの美貌を好色な振る舞いに乱用した者」であった[113]

一方で、同時代の人物の中にはより同情的な見方も示す者もいた。おそらくエドウィの義兄であったとされるエゼルウェアルドは、彼について「その非常な美貌ゆえに、庶民から“全き美しさ(All-fair)”という渾名を得た。彼は四年間絶え間なく王国を保持し、愛されるに値した」と記している[114]。また彼が葬られたウィンチェスターのニュー・ミンスターも、10世紀の歴史書において「(エドウィ王の死は)人々の多くの涙によって悼まれた」と伝えている[115]。この修道院は、エルフギフ(Ælfgifu)の遺言の受益者であり、この修道院が記した生者と死者の書英語版という書物は彼女をエドウィの妃と記す数少ない史料の一つである。さらに10世紀末から11世紀初頭には、コーンウォールの聖ペトロック教会英語版において、彼の追悼記念に際して奴隷が解放された[116]。後のイングランドであるエゼルレッド無策王は息子たちに先代王の名を付けており、第五子にはエドウィ英語版と名づけた[117]

現代の歴史家たちは概して「B」のエドウィ批評を退ける見方を示す。ウィリアムズは彼の言葉を「単なる悪意」であり、ダンスタン派の偏向によるものとみなしている[75]。スヌーク(Snook)は「Bがエドウィグの評判に対して包括的な破壊工作を行い、彼を無能で、好色で、復讐心に燃え、不敬で、専制的な人物として描いた」と述べている。「B」とその後継者たちは「彼の不敬さと高位に不適格であることについて、あらゆる稚拙なおしゃべりを書き立てた」[118]。サイモン・ケインズは次のように述べる:

エドウィは、好色な放蕩者、修道運動の敵、教会の略奪者、無能な統治者という評判を得ているが、これはおおむね聖ダンスタン最初の伝記(B作、1000年頃執筆)に由来し、その後も同じ主題を膨らませた史料によって繰り返されたものである。しかし確かに、エドウィはダンスタンと争い、彼を追放した。そして聖人伝が王の人生に関して公平な証拠を提供するかどうかは疑わしい[1]

スタッフォードは次のように評している:

エドウィには、その記憶を養う親族が残されておらず、10世紀後半の「政治的道徳家」たちの格好の標的となった。彼の短い治世の事情は複雑であり、彼に対する批判の中には、955年から957年にかけて行われた王位継承をめぐる議論の一部として厳密に同時代的であったものもある。私たちが受け取っているのは、エドウィを称えるためではなく葬り去るために用いられた議論の半分に過ぎない[110]

スヌークは現代で最も好意的な評価を与えている:

エドウィは非常に寛大な王であり、イングランド貴族の間で生じつつあった派閥的対立を驚くべき手腕と政治的洞察力をもって巧みに管理し、統一こそ保てなかったにせよ、王国の平和を維持し、エゼルレッド無策王の治世にイングランドを引き裂くことになる破滅的な内紛を回避したように見える。[…] 当時、修道院改革運動の理念に鼓舞された王国の有力な聖職者たちは、王権を犠牲にしてでも自らの個人的・政治的影響力を強めることに熱心であったことは明らかである[119]

その他の歴史家たちはより慎重である。ウィリアムズは「エドウィ治世の政治については依然として不明な点が多い」と述べ[51]、リチャード・ハスクロフトも「エドウィ治世の証拠は依然として不明瞭かつ曖昧である」と同意している[120]

エドウィとエルギヴァ — サクソン史の一場面ウィリアム・ハミルトン作、1793年

美術と文学の題材として

エドウィ王とエルフギフ王妃の物語は、18世紀後半から19世紀前半にかけて、画家・劇作家・詩人たちに人気の題材であった。画家としては、王立芸術院で『The Insolence of Dunstan to King Edwy(ダンスタンの不遜さとエドウィ王)』を出展したウィリアム・ブロンリー英語版ウィリアム・ハミルトン(図を参照)、ウィリアム・ダイス英語版リチャード・ダッドらが知られている。また、詩作としては、1784年にトマス・ウォリック英語版による『Edwy: a Dramatic Poem』がある[1]。さらに1779年にはトマス・セジウィック・ウォリー英語版の『Edwy and Edilda』が出版された[121]ファニー・バーニー英語版の戯曲『エドウィとエルギヴァ英語版』は1795年3月21日にドルリー・レーン劇場英語版で上演され、チャールズ・ケンブル英語版がエドウィ、サラ・シドンズがエルギヴァを演じたが、初演が大失敗に終わり、即座に打ち切られた[122]

注釈

  1. ^ この時代のポンドは貨幣ではなく、240ペンスに相当する会計単位であった。[9]
  2. ^ ローマ法は、婚姻予定の双方から共通祖先へ遡り、そこからもう一方に下るという数え方で4親等以内の婚姻を禁じていた。このため、いとこ同士の結婚は近親婚とされ、その規則は初期教会にも採用された。9世紀には教会はさらに厳格になり、共通祖先を一度だけ遡って7親等以内の婚姻を禁じ、結果として高祖父母(great-great-great-great-grandparent)を共有する者同士は結婚できなくなった。聖職者たちはこのような近親婚を「近親相姦」として糾弾し、10~11世紀には大陸ヨーロッパの貴族はそうした結婚を避けようとする傾向を強めた。これにより王族にとって深刻な問題が生じた。身分的にふさわしい候補者はほぼすべて血縁が近すぎたからである。例えば988年、フランク王ユーグ・カペーは息子ロベール2世の妻としてビザンツ皇帝の娘を求めたが失敗した[29]。ユーグの死後、ロベールはベルト・ド・ブルゴーニュと結婚したが、彼女はロベールの再従妹(二従兄弟にあたる血縁)であり、3親等にあたったため当時の人々を驚愕させた。教皇グレゴリウス5世はこの結婚を近親婚として非難し、ローマのシノド(宗教会議)はロベールにベルタとの離婚を命じ、二人に7年間の贖罪を科した。しかしロベールは、ベルタが男子を生めないことが明らかになるまでこの命令を無視し、その後の離婚の際に近親婚という罪状が婚姻解消の口実として利用された[30]。こうした「婚姻当時は黙認されていた血縁関係」を理由に解消された例は他にもあり、1152年のフランス王ルイ7世アリエノール・ダキテーヌの離婚もその一つである[31]。また、1008年の法典「VI Æthelred」には「キリスト教徒の男は6親等以内――すなわち4代以内――の血族と結婚してはならない」と定められている[32]。もしエルフギフが年代記作者エゼルウェアルドの妹であり、彼が「アルフレッド大王の兄エゼルレッド1世が曽祖父である」と述べているとすれば、彼女とエドウィは、両者が共通の祖先エゼルウルフとその妃オスブルフ英語版の子孫であることから、エドウィ側では4親等、エルフギフ側では5親等にあたったことになる[33]
  3. ^ 12世紀の年代記作者ウスターのジョン英語版もまた、オダがエドウィとエルフギフを引き離したと記しているが、それが両者が近親であったためなのか、そもそも正式な婚姻を結んでいなかったためなのか、ジョン自身は確信を持っていなかった[38]
  4. ^ エドレッドは「自分の遺体が安置されることを望む場所」への寄進と、その後にオールド・ミンスターへの財産寄進を別に記しており、両者は異なる場所を指すと考えられる[44]
  5. ^ 勅許状の「S番号」は、ピーター・ソーヤー英語版によるアングロサクソン勅許状カタログの番号であり、[https://esawyer.lib.cam.ac.uk/about/index.html Electronic Sawyer] 上で閲覧できる。
  6. ^ 956年の勅許状は、ケインズ『The Diplomas of King Æthelred the Unready』において詳しく論じられており、またエドウィのマーシア勅許状についてはシリル・ロイ・ハート英語版の『The Danelaw』で扱われている[80]
  7. ^ HT型貨幣の裏面は、造幣人名が横2行で書かれ、上下に三つ葉(Trefoils)が置かれる。変種HT1では中央に三つの十字が配される(上の図を参照)。HR型では三つ葉の代わりにバラ飾り(Rosettes)が置かれ、HR2では中央の三つ十字の代わりに「円・十字・円」の図案が使われる。[83]
  8. ^ サウスウェルは958年または959年にオスキテルがヨーク大司教に任命されたときに、大司教区に移された可能性が高い[102]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Keynes 2004.
  2. ^ Miller n.d.
  3. ^ Keynes & Lapidge 1983, pp. 9, 12–13, 23, 37–38.
  4. ^ Miller 2011.
  5. ^ Foot 2011.
  6. ^ Williams 2004a; Stenton 1971, pp. 357–358.
  7. ^ a b Williams 2004b.
  8. ^ Stenton 1971, p. 364.
  9. ^ Naismith 2014a, p. 330.
  10. ^ Yorke 1995, p. 132; Whitelock 1979, p. 555.
  11. ^ Kelly 1996, p. 56.
  12. ^ Jayakumar 2008, pp. 84–85; Kelly 2001, p. 236.
  13. ^ Biggs 2008, p. 137.
  14. ^ Williams 1999, p. 87; Huscroft 2019, pp. 123–124.
  15. ^ Keynes 2004; Winterbottom & Lapidge 2011, pp. xiii, 67, 69.
  16. ^ Winterbottom & Lapidge 2011, p. 69.
  17. ^ Winterbottom & Lapidge 2011, p. 69; Keynes 2004.
  18. ^ Roach 2013, pp. 169–170.
  19. ^ Winterbottom & Lapidge 2011, pp. xxxii–xxxiii, 69, 71.
  20. ^ Jayakumar 2008, p. 89; Yorke 1988, p. 80; Robertson 1956, p. 59; Whitelock 1930, pp. 21, 119; [https://esawyer.lib.cam.ac.uk/charter/1292.html S 1292]
  21. ^ Wood 1999, p. 59.
  22. ^ Brooks 1984, pp. 225–226; Williams 2014.
  23. ^ Naismith 2021, p. 235.
  24. ^ Stenton 1971, p. 366.
  25. ^ Stafford 2004a.
  26. ^ a b Lewis 2008, p. 106.
  27. ^ Whitelock 1979, p. 225.
  28. ^ Keynes 2004; Yorke 1988, pp. 76–77.
  29. ^ Bouchard 1981, pp. 269–276.
  30. ^ D'Avray 2014, pp. 44–46; Stafford 1998, pp. 83–84.
  31. ^ Bouchard 1981, pp. 268–269.
  32. ^ Brooks 1984, p. 225; Robertson 1925, p. 95.
  33. ^ Brooks 1984, p. 225; Campbell 1962, p. 39.
  34. ^ Winterbottom & Lapidge 2011, p. xxxi n. 89.
  35. ^ Miller 2014, p. 156.
  36. ^ Stafford 1981, p. 15.
  37. ^ Lapidge 2009, pp. 13 and n. 30, 15; Stafford 2004a.
  38. ^ Darlington & McGurk 1995, p. 409.
  39. ^ Stenton 1971, p. 366 n. 3; Cubbin 1996, pp. xi, lxi.
  40. ^ Keynes 1994, pp. 185–186; Keynes 2002, table XXXIa (6 of 6).
  41. ^ Snook 2015, pp. 154–155.
  42. ^ Snook 2015, p. 155.
  43. ^ Keynes 2008a, p. 30.
  44. ^ Keynes 1994, p. 188 and n. 99; Whitelock 1979, p. 555.
  45. ^ Marafioti 2014, pp. 69–71, 79.
  46. ^ Brooks 1992, p. 14.
  47. ^ Keynes 1985, pp. 190–191; Harmer 1914, p. 68; S 1211
  48. ^ Stafford 2004b; Stafford 1989, p. 48; Keynes 2002, p. 13, table XXXI.
  49. ^ Keynes 1999, pp. 476–477; Lewis 2008, p. 106.
  50. ^ Wickham 2009, p. 19.
  51. ^ a b Williams 1999, p. 87.
  52. ^ Naismith 2021, p. 262.
  53. ^ Williams 1999, p. 92.
  54. ^ Williams 1982, p. 148; Williams 2004c.
  55. ^ Keynes 2008a, pp. 30–31; Abels 2004.
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  57. ^ Keynes 2008a, pp. 6–7.
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  59. ^ Winterbottom & Lapidge 2011, p. 75.
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  67. ^ Whitelock 1979, pp. 224–225; Biggs 2008, pp. 129–131; Yorke 1988, p. 78.
  68. ^ Yorke 1988, p. 78; Jones 1958, p. 107.
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  119. ^ Snook 2015, pp. 126–127.
  120. ^ Huscroft 2019, p. 124.
  121. ^ Whalley 1779; Courtney & Mills 2021.
  122. ^ Darby 1997, p. 6.

参考文献

関連書籍

  • Blanchard, Mary; Riedel, Christopher, eds (2024). The Reigns of Edmund, Eadred and Eadwig, 939-959: New Interpretations. Woodbridge, UK: The Boydell Press. ISBN 978-1-78327-764-3 
  • Lavelle, Ryan (2014). “Royal Control and the Disposition of Estate in Tenth-Century England: Reflections on the Charters of King Eadwig (955-959)”. Haskins Society Journal 23: 23–49. 

外部リンク


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