中世のカルーガ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 18:28 UTC 版)
14世紀中頃にモスクワ大公国の南西部の境界の守備のための要塞として、オカ川とウグラ川の合流点からほど近い場所に建設された。1371年にカルーガの名でリトアニア大公アルギルダスの書簡に記録されている。コンスタンディヌーポリ総主教フィロセオスに宛てたこの書簡の中で、モスクワ大公国に奪われた町の一つとしてカルーガの名が挙げられている。 中世のカルーガは、オカ川上流公国群の一つヴォロツィンスク公国に発祥しモスクワ大公国の有力貴族となったヴォロツィンスキー公が治める小さな町であった。もとの中心地であったヴォロツィンスクの町は、現在のカルーガ市のすぐ南西にあったとされる。カルーガとモスクワの間にはカルーガ道と呼ばれる旧道があり、中世から近世には盛んに使われた。現在の国道A101号は部分的にこの旧道の近くを通る。 1480年には、大オルダのアフマド・ハンとリトアニア大公国の連合軍に対し、モスクワ大公国のイヴァン3世の軍がにらみ合いをした「ウグラ河畔の対峙」と呼ばれる出来事が起こり、ロシアに対するモンゴルの支配(「タタールのくびき」)の終わりを告げる戦いとなった。カルーガはモスクワ大公国軍の拠点となり、この後もモスクワを目指して攻めてくる西方のリトアニアや南方のタタール人の軍をここで食い止める要塞となった。17世紀初頭の動乱時代、ロシア・ポーランド戦争ではポーランド・リトアニア共和国軍や偽ドミトリー2世軍によりカルーガは蹂躙された。モスクワ付近の本拠地トゥシノから逃れていた偽ドミトリー2世をウルソフ公が殺したのはカルーガでの出来事であった。カルーガにあった木造のクレムリ(要塞)は、1654年にウクライナがポーランドからロシアへ割譲されると重要性を失い、18世紀に焼失したまま再建されなかった。
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