中世のスモレンスクとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 中世のスモレンスクの意味・解説 

中世のスモレンスク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:56 UTC 版)

スモレンスク」の記事における「中世のスモレンスク」の解説

スモレンスクロシア最古の町のひとつである。文献最初にスモレンスク言及されるのは863年のことで、リューリクラドガ政権築いた直後のことである。「原初年代記によればスモレンスク最初ドニエプル川のやや下流現在のグネズドヴォ遺跡の位置にあった考えられる)は、オレグノヴゴロドからキエフへと遠征し882年にはクリーヴィチ族の首邑であり、このときにオレグらに征服されキエフ・ルーシ組み込まれた。その20年前、リューリク部下南方へ使わされたアスコルドジールドニエプル下った際にも人口多く町も大きなスモレンスクの横を通っており、これを襲っている。 この町について最初に書物記した外国人東ローマ皇帝コンスタンティノス7世である。その著書帝国統治論』(De Administrando Imperio, 950年頃)では、スモレンスクを、北欧からロシア内陸河川経て黒海に至る交易路ヴァリャーギからギリシアへの道」の主要な中継地と述べている。ルーシ人バルト海からダウガヴァ川を船で遡って行ける所まで行き最上流部で船と荷物を川から上げ、船を引きずって丘を越える道(連水陸路)を歩きドニエプル川上流で船を下ろして黒海下っていた。おそらく彼らはスモレンスクで船の修理行った。この地で豊富に取れタール使って、陸で船を引きずったときにできた穴や隙間埋めて修理したため、「タール」を意味するスモレンスク地名生じた考えられるキエフ大公ヤロスラフ1世没後1054年スモレンスク公国成立したロシア中央にあるという地理的条件から、スモレンスクの町は急成長遂げた12世紀末には東ヨーロッパ有数強国となり、ヤロスラフ1世の子孫であるスモレンスク公は度々キエフ大公地位就いた。この時期多く教会建設された。例えば聖ピョートル・聖パーヴェル聖堂1146年第二次世界大戦後建設当時の姿を想定して再建)、前駆授洗イオアン聖堂1180年部分的に再建され現在に至る)などがある。特筆すべき聖堂はスヴィルスカヤ聖堂で、1197年完成し現存している。建立当時の人々にはキエフ以東で最も美し建築として崇敬されていた。

※この「中世のスモレンスク」の解説は、「スモレンスク」の解説の一部です。
「中世のスモレンスク」を含む「スモレンスク」の記事については、「スモレンスク」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「中世のスモレンスク」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中世のスモレンスク」の関連用語

中世のスモレンスクのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中世のスモレンスクのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのスモレンスク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS