中世のフェーデと宗教改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:58 UTC 版)
「エルリングハウゼン」の記事における「中世のフェーデと宗教改革」の解説
パーダーボルン司教がいつリッペの領主権を移譲したのかは議論が分かれている。しかし、12世紀後半のベルンハルト2世 (リッペ)(ドイツ語版、英語版)がかつてのパーダーボルン司教の高権を保持している者として行動していることは確かである。ベルンハルト2世は、1177年からエルリングハウゼンの北西 3 km の場所あるレーヴェンベルク城を獲得して防御を固めた。ラーフェンスベルク伯ヘルマンとの衝突に備える行動であった。エーヴァーシュタインのフェーデの間(1403年から1407年)エルリングハウゼンは、他のリッペ領と同様に、ブラウンシュヴァイク公の軍隊に占領され、一部は廃墟と化した。1409年から被害リストが作成され、その中で盗み、放火の脅迫、その他の暴行が語られている。特にリッペとラーフェンスベルクとの境界地域の被害が大きかった。リートベルクのフェーデ(1556年から1566年)では、リートベルク伯(ドイツ語版、英語版)ヨハンがリッペの飛び地であったリッペローデを奇襲したと伝えられている。リートベルク市を包囲したリッペ領主家ベルンハルト8世の反撃は、最終的にはユーリヒ公に屈服した。 13世紀には、アレクサンダー教会周辺にエルリングハウゼンの中核部が建設された。この教会は 1201年に記録され、1225年の文書はエルリングハウゼンが助祭長の所在地であったことを証明している。1500年頃、テンスベルクの人里離れたなだらかな尾根にアントニウス礼拝堂が建設された。その遺跡は、かつての防衛施設の東側にあり、山にその名を遺している(「テンス」・フォン・アントニウス)。宗教改革の少し前、エルリングハウゼンはパーダーボルン司教区最大の教会区であった。さらにエルリングハウゼンは、伯の行政上の役所である、代官所の所在地であった。この教会と代官所、さらに峠沿いの開けた立地は、この村が急速に発展することに寄与した。鍛冶屋、馬車職人、商売人、居酒屋がこの村に住みついた。
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