中世のラタキア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:52 UTC 版)
東ローマ帝国統治下の494年と555年の大地震で街は荒廃し往時の重要性を失い、638年にアラブ人たちによるイスラム国家がラオディケイアを陥落させた。当時のシリアはギリシア系住民や正教徒が多く東ローマ帝国はこの地を固有の領土と見なし何度も軍を送った。東ローマは969年にラタキアを奪取したが、1084年にセルジューク朝に奪われた。 1097年、第1回十字軍はラタキアを陥落させアンティオキア公国の一部とした。東ローマは1098年と1100年に取り返したが、以後は十字軍国家と東ローマの間を往復し、イタリア商人の寄港地や十字軍の補給港となっていた。1188年にサラーフッディーンがムスリムの手にラタキアを取り戻し、1260年には十字軍国家トリポリ伯国が落としたものの1287年にカラーウーンに奪われた。16世紀から第一次世界大戦までの間はオスマン帝国の一部となった。
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