中世の三部会
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1302年、フランス王権の拡大は聖俗封建領主と特権諸都市の代表(事実上の封建領主)からなる大会議の開催につながった。この機関には先例があり、特権都市の代表はしばしば会議を持っており、そしてフィリップ3世の時代に貴族と聖職者の会議があり、二つの身分は別個に審議を行っていた。 フィリップ4世は教皇ボニファティウス8世との紛争(アナーニ事件参照)に際し、国内の支持を取り付けるべく1302年4月10日にパリのノートルダム大聖堂で三身分合同会議を開催した。これが三部会の始まりとされている。国王に加えて最高国務会議もこの会議を望み、彼は三身分(聖職者、貴族、平民)からこの重大な危機に関する助言を受けた。1302年三部会の公開状(招集状)はM・ジョルジュ・ピコのコレクション"Documents inédits pour servir à l'histoire de France"に収録されている。同じ治世期にその後も幾度かテンプル騎士団廃止問題の審議や特別補助金(subside)を承認して国王に援助を与える三部会が開催されている。特別補助金は三部会開催の最も頻繁な動機となった。 1337年に百年戦争が勃発するとフィリップ6世とジャン2世がたびたび三部会を招集して戦費のための特別補助金を受けている。1356年のポワティエの戦いでジャン2世がイングランドの捕虜になると王太子シャルルは対応策として三部会を招集した。この三部会でパリ商人頭(パリ市長)エティエンヌ・マルセルが議会制政治の雛型的な顧問会議による統治を要求して紛糾し、パリで反乱が発生した。王太子はパリを脱出し、マルセルに対抗する別の三部会を招集して支持を取り付け反乱を鎮圧している。 百年戦争の危機は三部会を利し、三部会は投票だけでなく代表を通じて税の管轄権と管理運営を支配した。シャルル7世の治世前半には三部会はほぼ毎年招集され、特別補助金の投票を忠実に行った。だが、戦争が終わると三部会は疲弊と平和への渇望のために最も重要な権利である財政に関する権限を放棄してしまった。 ルイ11世の死後に開催された1484年三部会では三身分の代表たちは課税を定期的に認可する権利を取り戻すことを望み一致して努力した。彼らはタイユ税の総額を減らすとともに2年だけの採決した。彼らは2年間の期限が切れる前に再び三部会を開催することを国王に要求し、確約を得ることさえした。だが、約束は守られず、1560年まで三部会が開催された記録はない。そのため、以後76年間の空白期ができることになり、この間、歴代国王はあらゆる手段を使って王権の拡大を行っている。 この空白期間には名望家たちを専門家として招集した名士会が三部会に代わる諸身分の代表としての役割を果たしている。
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