中世の三部会とは? わかりやすく解説

中世の三部会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 05:45 UTC 版)

三部会」の記事における「中世の三部会」の解説

1302年フランス王権拡大聖俗封建領主特権都市の代表(事実上封建領主からなる大会議の開催つながった。この機関には先例があり、特権都市の代表はしばし会議持っており、そしてフィリップ3世時代貴族聖職者会議があり、二つ身分別個に審議行っていた。 フィリップ4世教皇ボニファティウス8世との紛争アナーニ事件参照)に際し国内支持取り付けるべく1302年4月10日パリノートルダム大聖堂三身分合同会議開催した。これが三部会始まりとされている。国王加えて最高国務会議もこの会議望み、彼は三身分聖職者貴族平民)からこの重大な危機に関する助言受けた1302年三部会公開状招集状)はM・ジョルジュ・ピコのコレクション"Documents inédits pour servir à l'histoire de France"に収録されている。同じ治世期にその後幾度かテンプル騎士団廃止問題審議や特別補助金subside)を承認して国王援助与え三部会開催されている。特別補助金三部会開催の最も頻繁な動機となった1337年百年戦争勃発するフィリップ6世ジャン2世がたびたび三部会招集し戦費のための特別補助金受けている。1356年ポワティエの戦いジャン2世イングランド捕虜になると王太子シャルル対応策として三部会招集した。この三部会パリ商人頭パリ市長)エティエンヌ・マルセル議会制政治雛型的な顧問会議による統治要求して紛糾しパリ反乱発生した王太子パリ脱出しマルセル対抗する別の三部会招集し支持取り付け反乱鎮圧している。 百年戦争危機三部会利し三部会投票だけでなく代表を通じて税の管轄権管理運営支配したシャルル7世治世前半には三部会はほぼ毎年招集され、特別補助金投票忠実に行った。だが、戦争が終わると三部会疲弊と平和へ渇望のために最も重要な権利である財政に関する権限放棄してしまった。 ルイ11世死後開催され1484年三部会では三身分の代表たちは課税定期的に認可する権利取り戻すことを望み一致して努力した。彼らはタイユ税の総額を減らすとともに2年だけの採決した。彼らは2年間の期限が切れる前に再び三部会開催することを国王要求し確約を得ることさえした。だが、約束守られず、1560年まで三部会開催され記録はない。そのため、以後76年間の空白期できることになり、この間歴代国王あらゆる手段使って王権拡大行っている。 この空白期間には名望家たちを専門家として招集した名士会三部会代わる身分代表として役割果たしている。

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