中世の交通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:53 UTC 版)
平安時代から三津浜と呼ばれた比叡山の外港坂本は、中世には大津を凌駕するかたちで栄えるようになり、京都への物資運搬を担う馬借・車借が室町時代以降大きな力を持っていくことにも繋がった。湖上交通の中心は平安時代から引き続き南北ルートであったが、中世以降は琵琶湖の最狭部である堅田などを拠点とする東西ルートも発展していく。また前述のように、港(津)の発展には内湖(ないこ)が関わっており、内湖(ないこ)を含む湖岸環境の変化により、津の立地も変化している。 中世には荘園領主により港が管理されるようになり、年貢などの貢献物の輸送も湖上輸送も増え、琵琶湖は経済的に利用されるようになる。堅田は中世をとおして湖上交通において中心的な役割を果たし、船の検問などを行い湖上の安全を保証する見返りに金品を求めることのできる上乗権(うわのりけん)と呼ばれる特権を室町時代に与えられた。湖上には坂本を中心に複数の関も設けられ、関銭は山寺の造営などに用いられた。 建武3年(1336年)には足利尊氏を追った義良親王・北畠顕家が大軍を率いて琵琶湖を東から西に渡るなど、湖上は軍事的にも利用されるようになっていく。戦国時代に入ると、従来の比叡山延暦寺に加え戦国大名の浅井氏が菅浦・大浦・沖島、六角氏が堅田の船を支配下に置くなど、各浦の船の掌握を図るようになった。
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