中世の低地地方
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「中世の低地地方」の解説
詳細は「ネーデルラント」および「ブルゴーニュ領ネーデルラント」を参照 12世紀までに、低地地方にはホラント伯やゲルデルン公、ブラバント公、エノー伯、ルクセンブルク伯、フランドル伯などの世俗領主、ユトレヒト司教やリエージュ司教といった教会領主が分立割拠し、あたかも寄木細工の様相を呈していた。大枠ではフランドル地方のみが西フランクすなわちフランスの領域に属し、残る大部分は神聖ローマ帝国の領域に属していたが、11世紀後半ごろからこの地域に対する神聖ローマ皇帝の勢威が減退していき、低地地方は徐々に英仏両国の影響を受けるようになっていった。 低地地方南部のフランドル伯は、フランスと神聖ローマ帝国にまたがる広大な領域を支配してフランス王との緊張を強め、とくに支配下の諸都市はイングランドとの交易上の結びつきも強く、歴代のフランドル伯も婚姻関係などを通じてイングランド王に接近した。フランドル伯ボードゥアン9世の時代には、ノルマンディをイングランド王ジョンから取り上げたフィリップ2世がフランドルをうかがう情勢となった。ボードゥアンの娘ジャンヌ・ド・コンスタンティノープルの時代にはイングランド王および神聖ローマ皇帝(オットー4世)と同盟してフランス王権に挑戦したが、1214年のブーヴィーヌの戦いで敗北し、以後はしばらくフランスへの服属を余儀なくされた。 14世紀中葉、低地地方は相続と婚姻を通じてブルゴーニュ家のフィリップ2世(豪胆公)の支配下に入り、この公国のもとで政治的統一が進められた。ブルゴーニュ公国はその収入の大部分が臨時収入であり、低地地方からの収入割合はそのうちの約75パーセントを占め、経常収入においてもブルゴーニュ本領から収入はおよそ5パーセントに過ぎなかった。このように公国は財政的に低地地方に大きく依存しており、自然と政治の重心も低地地方へ移動せざるを得なくなった。ジャン1世(無畏公)は上訴権を強化して都市裁判を公の裁判へ従属させるなどしたが、百年戦争中のフランス宮廷の政争に関わったことから、アルマニャック派によって暗殺された。次のフィリップ3世(善良公)の治世は長きにわたったが、当時はすでに聖職者、貴族、有力都市民からなる身分制議会が低地地方でも開かれており、善良公はこれを存続させて新たに課税賛否権と請願権を与え、1464年にはブルッヘに低地地方の代表を集めて公位継承を審議させた。この議会は「全国議会(エタ・ジェネロー)」の始まりとされている。 1477年にシャルル突進公がロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで戦死すると、フランス国内のブルゴーニュ公領は即座にフランス王権に回収され、相続者マリー・ド・ブルゴーニュに残されたのは低地地方とフランシュ=コンテのみであった。マリーは同年ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、これらの地域も一円的にハプスブルク家の支配に収まった。 なお、この地方ではデフェンテル(現:オランダ中部)で1370年代にヘールト・フローテ(オランダ語版、英語版)やフローレント・ラーデベインス(英語版)らにより、共同生活兄弟会(英語版)が創設されている。これは、ローマ教会を頂点とする信仰の組織化に対立した共同体的結社であり、神秘主義者ヤン・ファン・リュースブルク(英語版、オランダ語版)の影響を受けて本源的キリスト教の生活を実践しようとするものであり、そこでは司祭も一般信者もともに隣人愛的共同生活を経て、観想、祈り、清貧を実践していくことが目的とされた。『キリストのまねび』の著者トマス・ア・ケンピスはその推進者であったが、人文主義者として著名なエラスムスもデフェンテルの共同生活兄弟会附属の寄宿学校生であった。
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