中世の公爵領とオーストリアの支配
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「ヴュルテンベルク」の記事における「中世の公爵領とオーストリアの支配」の解説
エーバーハルト5世は歴代のヴュルテンベルク君主の中で最も優れた人物の一人であり、1495年に神聖ローマ皇帝から「ヴュルテンベルク公」の称号を認められ、家領を公国に昇格させ、自らはヴュルテンベルク公エーバーハルト1世となった。エーバーハルト1世が翌1496年に亡くなると、従弟のエーバーハルト2世が後を継いだが、わずか2年で廃位された。 エーバーハルト2世の後継者ウルリヒは即位時にはまだ子供であった。ウルリヒの長い治世(1498年 - 1550年)の間に、ヴュルテンベルクは最も波乱に富んだ時期を迎え、有能かつ無節操、かつ野心的な公爵ウルリヒの統治がヴュルテンベルクに他のドイツ領邦とは違った政治文化を築くことになった。ウルリヒは潤沢な予算を求めて領民から強盗に近いようなやり方で金をむしり取ったため、貧民コンラート (arme Konrad) という人物の率いる一揆が発生した(これはイングランドのワット・タイラーの起こした反乱に似た性格のものであった)。公爵とその顧問は機敏に事態を収拾し、1514年にはテュービンゲンの和約が結ばれ、領民は公爵から課せられる課税を受け入れる代わりに様々な政治的権利を与えられた。この政治的権利のため、ヴュルテンベルク国家には国法に基づく自由を基礎とした社会が形成された。その数年後、ウルリヒはシュヴァーベン同盟と敵対し、シュヴァーベン同盟軍にヴュルテンベルクを侵略された。同盟軍はウルリヒの妻ザビーナの弟のバイエルン公ヴィルヘルム4世の援助を受けていた。バイエルン公はウルリヒが姉を虐待していることに腹を立てていたのだった。亡命を余儀なくされたウルリヒは神聖ローマ皇帝カール5世に公爵領を22万グルデンで売却した。 カール5世はヴュルテンベルクを弟のフェルディナント1世に譲り、フェルディナント1世は数年のあいだ名目上の統治者を務めた。しかし住民はオーストリアによる専制的な支配に対する不満を募らせ、ドイツ国内が農民戦争を発端とする戦乱と宗教改革による動揺のために不安定になると、ウルリヒは機会をとらえて公国を取り戻した。1534年5月、ウルリヒはヘッセン方伯フィリップ1世とその他のプロテスタント諸侯の援助を得てフェルディナント1世の軍勢をラウフェンで打ち負かし、そしてカーデンの和約によってヴュルテンベルク公に返り咲いたのである。しかし、必然的にオーストリア大公の封臣として公国を与えられるという形で復位することとなった。ウルリヒは後に改革派の宗教信条を採用し、自分の領国全域にプロテスタントの教会を建設するよう努め、1536年にテュービンガー・シュティフト神学校を創設した。ウルリヒは晩年になってシュマルカルデン同盟に関わったため、皇帝軍によって再び領国を追われた。カール5世は1547年にはまたもやウルリヒを復位させてやったが、今度は金銭的な賠償を支払わせた。
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