中世の勢力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 14:08 UTC 版)
中世、瀬戸内海の島々は荘園化が進められ、畿内に租税が船で運ばれていった。航路の難所では、航行の安全を確保するとして水先人が登場しそして警固料(通行料)を取るようになった。これが警固衆(水軍)の起こりである。 南北朝時代、警固屋は警固屋氏が支配し、周辺の豪族とで呉衆と呼ばれた連合組織を形成していた。呉衆は周防守護大内氏の傘下にあり大内水軍として各地を転戦している 。ただ『芸藩通志』には警固屋の城は宮原隼人の居城であると示されていることから、警固屋氏は没落したことになる。 『鹿苑院殿厳島詣記』には、音戸の瀬戸に入った足利義満の前に大内氏傘下多賀谷氏の某が来て大内義弘が遅参している理由を義満に弁明したことが書かれている。 一方で倉橋島北側の音戸町は当時「波多見島」と呼ばれ、矢野城(現安芸区)を根城とした大内氏傘下野間氏が支配し、瀬戸城(あるいは波多見城)をその拠点とした。1421年(応永28年)野間氏は竹原小早川氏と縁組を結び、嫁がせた娘の扶養料として一代限りの期限付きで島を譲渡した。のちに野間氏は援助の見返りとして小早川氏に島を永久譲渡した。上記の清盛塚にある宝篋印塔が室町時代の作であること、塚がある地は建立当時友好関係にあった野間氏と小早川氏に関係する縄張りであることから、その建立に2者が関わっていると推定されている。 1466年(文正元年)小早川氏は乃美氏に波多見島を守らせ瀬戸城主とし、乃美氏は瀬戸姓を名乗るようになる。同年、野間氏は約定を破り波多見島へ出兵、これにより小早川氏との対立が明確なものとなった。2者は共に大内氏傘下の関係にあり、2者の対立を大内氏が治めたが、応仁の乱のどさくさに紛れ野間氏は出兵し瀬戸城を占拠する。小早川氏が奪い返した後、大内氏はこの紛争に介入し波多見島は2者による分割統治という妥協案を飲ませた。 1523年(大永3年)大内氏と対立していた出雲尼子氏が安芸に侵攻してくると、再び野間氏と小早川氏との抗争が活発化した。1525年(大永5年)小早川氏の瀬戸賢勝(乃美賢勝)が野間氏を呉から追い出し、これ以降波多見島は小早川水軍の拠点の一つとなった。 伝承によると、清盛塚の周りの石垣は小早川隆景が整備したと言われており、そのことを記した碑が塚内に建っている。
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