中世の口米
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:27 UTC 版)
中世期には「くちのよね」とも呼ばれ、また口籾(くちもみ)などの名称でも知られた。 平安時代後期の康永3年(1101年)、摂津国垂水荘における「地子米収納注進状案」(『教王護国寺文書』1-22)に「口米」の語が登場するのが最古である。 税率は荘園ごとに異なり、本年貢や加地子の3%から20%まで様々であった。主に荘官の得分や、公文所・納所などの現地荘務組織や年貢輸送の費用、荘園領主に納める本年貢が徴収・輸送段階にて不足した場合に不足分(斗欠)を補うために徴収していたと考えられている(税率の違いも口米の使途に影響されていると考えられている)。また、銭納及び代銭納の進展によって、口米に相当する付加税を金銭で納める口銭が行われた地域もあった。口銭は米などの収入が発生しない屋敷地の地子に対しても賦課された。戦国時代に入ると荘園制は衰退するが、領主などが年貢米とともに口米を徴収している場合もあった。
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