中世の史跡
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「長崎県指定文化財一覧」の記事における「中世の史跡」の解説
鎌倉・室町時代の国指定史跡には、鎌倉時代に営まれた西海市のホゲット石鍋製作遺跡、有馬氏の居城として延岡藩転封直後まで機能した日野江城跡がある。日野江城は伝承によると鎌倉期の築城だが、南北朝時代の城と推測されている。 名称位置指定日解説松浦党梶谷城跡 松浦市今福町東免 1974年9月14日 松浦党の山城で、松浦久が築城したといわれるが、時期は延久元年(1069年)から久安元年(1145年)まで諸説ある。城山山頂に石塁を巡らした主郭と副郭を設け、主郭の大手・搦手に櫓台を置く。西麓には石壁を積んだ館跡と思われる遺構がある。 直谷城跡 佐世保市吉井町直谷 2002年2月26日 松浦党の中世山城。御厨氏から分家した志佐氏の居城であるが、築城の時期は不明。内裏山山頂を主郭とする。主郭を断崖上に設定し、大手道を空堀で固め、尾根筋に出丸・櫓台を置き、谷筋に竪堀を巡らした、内裏山の地形を活用した防御陣地となっている。 文永の役新城古戦場 壱岐市勝本町新城東触 1970年1月7日 元寇第一波・文永11年(1274年)旧暦10月14~15日に壱岐で展開された「文永の役」の戦跡。戦闘で平景隆が応戦した鯛の原や戦闘・略奪の犠牲者を弔う千人塚、役に由来すると思われる高麗橋・勝負坂・唐人原などの地名を一括して指定している。 弘安の役瀬戸浦古戦場 壱岐市芦辺町箱崎大左右触 1970年1月7日 元寇第二波・弘安4年(1281年)旧暦5月26日以降に壱岐で展開された「弘安の役」の戦跡。迎撃・脱出・奪還を展開した少弐資能・経資・資時の少弐氏三代にまつわる史跡が多く、若くして戦死した資時の墓が知られる。 亀丘城跡 壱岐市郷ノ浦町本村触 1977年5月4日 永仁元年(1293年)、松浦党の波多宗無が築いた平山城。中世の地割が藩政時代も継承され、明治6年(1873年)に廃城。日高守喜の謀反を経て元亀2年(1571年)に松浦氏の支配下に置かれ、藩政時代は亀丘城に壱岐郡代・亀丘城代が派遣された。 壱岐国安国寺跡 壱岐市芦辺町深江栄触 1974年4月9日 足利尊氏が各国に建立させた安国寺の一つ。壱岐安国寺は既存の海印寺を改めて観応元年(1350年)に開山した。史跡名勝は「跡」がつくが、開山以来被災破却の被害はなく、国指定重文の大般若経をはじめ、重文・天然記念物各1件を所有する壱岐最古の寺である。 円通寺門礎石 南島原市加津佐町己 1941年1月17日 正平8年(1353年)に大智禅師が開山した円通寺の跡。玄武岩を粗く割った不等五角形の門の礎石。領主有馬澄世に請われて開いたといわれる。キリシタンに破却されて廃寺となる。現巌吼寺は島原の乱後に円通寺再興を兼ねて跡地に開かれた。 勤皇大智禅師大梅の塔 南島原市加津佐町己 1941年1月17日 正平21年(1366年)に円通寺で没した大智禅師の墓石を「大梅の塔」と通称する。九州の有力な南朝武士菊池武重はじめ菊池一族を教化した。遺言により書状をすべて焼却したため、教理は伝承していない。墓石に施主の名が刻まれているが、後世の追刻である。 日島の石塔群 新上五島町日島郷 2000年2月22日 日島の北西岸曲地区の無銘石塔70基、南東岸釜崎地区の正平22年(1367年)銘入り宝篋印塔を一括指定。無銘石塔群も技法から14~15世紀と見られる。石材や技法が畿内・北陸方面のものと酷似しており、日島が海上交易の拠点であったと推測される。 長与の寺屋敷跡五輪塔群 長与町丸田郷 1971年2月5日 寺屋敷跡地区に分散していた五輪塔で、一箇所に集約し修復保存している。無銘が多く由来は不明だが、一部は明徳2年(1391年)を最古に天文10年(1541年)まで銘が確認できる。旧領主の長与氏との関連性も推測される。 対馬円通寺宗家墓地 対馬市峰町佐賀 円通寺 1974年7月2日 厳原万松院の宗家墓地が藩政時代なのに対し、円通寺の宗家墓地は室町中期のもの。円通寺が宗家菩提寺であったのは、8代当主貞茂から厳原に移った11代当主貞国の頃とされる。裏山に並ぶ無銘の宝篋印塔が歴代宗家の墓と推測されている。
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中世の史跡
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一ノ宮の小野神社は武蔵国開拓の祖神・天下春命(あめしのしたはるのみこと)を主神とする。武州六大明神の一つとされた由緒がある。境内には東京都指定有形文化財の木造随身倚像2体を所蔵する。霞ノ関南木戸跡は建暦3年(1213年)鎌倉街道に設置された関所の南木戸の柵の跡である。鎌倉防衛の軍事的要所であったと考えられている。熊野神社境内参道に平行する16か所の丸柱跡が、発掘調査で確認され、丸木で再現された。1961年に東京都の史跡に指定された。天守台は桜ヶ丘住宅地附近一番の高台である。鎌倉時代から物見台としての役割をもち関戸城跡とされている。関戸古戦場は太平記に描かれる関戸合戦の伝承地である。元弘3年(1333年)、敗走する鎌倉幕府軍を追って多摩川を越えた新田義貞軍が激しい掃討戦を行った。合戦伝承地には地蔵尊がまつられ、「関戸古戦場跡」の標柱が建てられている。付近には合戦で討死した横溝八郎・安保入道・無名戦士の墓がある。
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