中世の史跡とは? わかりやすく解説

中世の史跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:58 UTC 版)

長崎県指定文化財一覧」の記事における「中世の史跡」の解説

鎌倉・室町時代の国指定史跡には、鎌倉時代営まれ西海市ホゲット石鍋製作遺跡有馬氏居城として延岡藩転封直後まで機能した日野江城跡がある。日野江城伝承によると鎌倉期築城だが、南北朝時代の城推測されている。 名称位置指定日解松浦党梶谷城松浦市今福町東免 1974年9月14日 松浦党山城で、松浦久築城したといわれるが、時期延久元年1069年)から久安元年1145年)まで諸説ある。城山山頂石塁巡らした主郭と副郭を設け主郭大手搦手櫓台を置く。西麓には石壁積んだ館跡思われる遺構がある。 直谷城佐世保市吉井町直谷 2002年2月26日 松浦党中世山城御厨氏から分家し志佐氏の居城であるが、築城時期不明内裏山山頂を主郭とする。主郭断崖上に設定し大手道を空堀固め尾根筋出丸・櫓台を置き、谷筋竪堀巡らした内裏山の地形活用した防御陣地となっている。 文永の役新城古戦場 壱岐市勝本町新城東触 1970年1月7日 元寇第一波文永11年1274年旧暦10月1415日壱岐展開された「文永の役」の戦跡戦闘平景隆応戦したの原や戦闘略奪犠牲者弔う千人塚、役に由来する思われる高麗橋勝負坂・唐人原などの地名一括して指定している。 弘安の役瀬戸古戦場 壱岐市芦辺町箱崎大左右触 1970年1月7日 元寇第二波弘安4年1281年旧暦5月26日以降壱岐展開された「弘安の役」の戦跡迎撃脱出奪還展開した少弐資能・経資・資時の少弐氏三代まつわる史跡多く若くして戦死した時の墓が知られる。 亀丘城跡 壱岐市郷ノ浦町本村触 1977年5月4日 永仁元年1293年)、松浦党波多宗無が築いた平山城中世地割藩政時代継承され明治6年1873年)に廃城日高守喜の謀反経て元亀2年1571年)に松浦氏支配下置かれ藩政時代は亀丘城に壱岐郡代・亀丘城代派遣された。 壱岐国安国寺壱岐市芦辺町深江栄触 1974年4月9日 足利尊氏各国建立させた安国寺一つ壱岐安国寺既存海印寺改め観応元年1350年)に開山した。史跡名勝は「跡」がつくが、開山以来被災破却被害はなく、国指定重文大般若経をはじめ、重文天然記念物各1件を所有する壱岐最古の寺である。 円通寺礎石 南島原市加津佐町己 1941年1月17日 正平8年1353年)に大智禅師開山した円通寺の跡。玄武岩粗く割った不等五角形の門の礎石領主有馬世に請われ開いたといわれるキリシタン破却されて廃寺となる。現巌吼寺島原の乱後に円通寺再興兼ねて跡地開かれた勤皇大智禅師大梅の塔 南島原市加津佐町己 1941年1月17日 正平21年1366年)に円通寺没した大智禅師墓石を「大梅の塔」と通称する。九州有力な南朝武士菊池武重はじめ菊池一族教化した遺言により書状をすべて焼却したため、教理伝承していない墓石施主の名が刻まれているが、後世追刻である。 日島石塔群 新上五島町日島郷 2000年2月22日 日島北西岸曲地区無銘石塔70基、南東釜崎地区正平22年1367年)銘入り宝篋印塔一括指定無銘石塔群技法から1415世紀と見られる石材技法畿内北陸方面のものと酷似しており、日島海上交易拠点であった推測される長与寺屋敷跡五輪塔長与町丸田郷 1971年2月5日 寺屋跡地区に分散していた五輪塔で、一箇所集約し修復保存している。無銘多く由来不明だが、一部明徳2年1391年)を最古天文10年1541年)まで銘が確認できる旧領主長与氏との関連性推測される対馬円通寺宗家墓地 対馬市峰町佐賀 円通寺 1974年7月2日 厳原万松院宗家墓地藩政時代なのに対し円通寺宗家墓地室町中期のもの。円通寺宗家菩提寺であったのは、8代当主貞茂から厳原移った11当主貞国の頃とされる裏山に並ぶ無銘宝篋印塔歴代宗家の墓と推測されている。

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中世の史跡

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聖蹟桜ヶ丘」の記事における「中世の史跡」の解説

一ノ宮小野神社武蔵国開拓祖神天下春命(あめしのしたはるのみこと)を主神とする。武州六大明神一つとされた由緒がある。境内には東京都指定有形文化財木造随身倚像2体を所蔵する霞ノ関南木戸跡は建暦3年1213年鎌倉街道設置され関所南木戸の柵の跡である。鎌倉防衛軍事的要所であった考えられている。熊野神社境内参道平行する16か所の丸柱跡が、発掘調査確認され丸木再現された。1961年東京都史跡指定された。天守台桜ヶ丘住宅地附近一番の高台である。鎌倉時代から物見台としての役割をもち関戸城跡とされている。関戸古戦場太平記描かれる関戸合戦伝承地である。元弘3年1333年)、敗走する鎌倉幕府軍を追って多摩川越えた新田義貞軍が激し掃討戦行った合戦伝承地には地蔵尊まつられ、「関戸古戦場跡」の標柱建てられている。付近に合戦討死した横溝八郎安保入道無名戦士の墓がある。

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