中世の坊津と海外交易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 22:55 UTC 版)
中世の坊は「坊津」という地名であった。地名としての坊津は鎌倉時代より見え、薩摩国河邊郡のうちであった。承久の乱以降、河邊郡を治めていた千竈氏が記した「千竃文書」に坊津の地名が記載されており、嘉元4年(1306年)4月14日の譲状において「ハうのつ」と記載されているのが地名の初見であるとされる。 応永11年(1404年)から1世紀半に渡って行われた日明貿易に用いられた遣明船は、堺から博多、五島列島を経て明に向かう中国路と、堺から土佐沖、坊津、琉球を経て明に向かう南海路の2ルートがあり、当初は中国路のみが用いられていたが、第4次遣明船より南海路が主に用いられるようになった。またこの頃朝鮮半島や中国大陸沿岸で活動していた海賊である倭寇は、坊津を拠点の1つとしていたといわれている。 応永24年(1417年)に薩摩国南部を平定した島津豊久は、薩摩国南部征討の目的として「夫より坊津・泊津に御下り、更に草木もなひき候得者、大慶此時に候、か様に薩摩一向に御静謐候」と記しており、坊津の領有が目的の一つであったとしている。 室町時代の軍記物「応永記」においては隣接する泊(現在の坊津町泊)と併せて「坊泊」と記されている。文禄3年(1594年)に京都の公家近衛信輔は豊臣秀吉が朝鮮出兵のため朝鮮に向け兵を起こしたのに合わせて、自ら朝鮮半島に渡ろうとして、後陽成天皇と秀吉の怒りを買い、坊津に3年間の配流となった。しかし近衛家は薩摩の島津氏とは縁故の深い関係にあり、かつ坊津は近衛家の荘園地であったことから、配流とはいえ厚くもてなされたという。近衛信輔は坊に居住している間に坊津の風景を詠んだ「坊津八景」を記している。
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