中世の定住地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 16:22 UTC 版)
「トランシルヴァニア・ザクセン人」の記事における「中世の定住地」の解説
ドイツ人定住地の事実上の段階は、12世紀半ばに始まった。植民者たちは、ヘルマンシュタット(Hermannstadt)周辺を基盤とするヘルマンシュタット地方(Hermannstadt Provinz、またはアルトラント (Altland))となる地へ旅してきた。ゲーザ2世によるドイツ人招聘の第一の理由は、彼らを侵入者に対する国境地帯防衛にセーケイ人とともにあたらせることにあったが、ドイツ人は自らの採掘の専門知識と、地方経済発展の能力も追求した。この時代にやってきたほとんどの植民者たちは、ルクセンブルク、モーゼル川地方からやってきた。 ドイツ人植民の第二段階は、13世紀初頭にやってきた。この時は、ラインラント、低地諸国、モーゼル川地方出身者、その他にはテューリンゲン、バイエルン、さらにはフランスからやってきた者から構成されていた。トランシルヴァニア北東部の定住地は、ネーゼン(Nösen)の町に集中していた。ネーゼンはのちにビストリッツ(Bistritz、ビストリッツ川岸にあったため)となった。周囲の一帯はネースナーラント(Nösnerland)として知られるようになった。神聖ローマ帝国からの移住は続き、ザクセン人の居住地帯はさらに東へ拡大した。ヘルマンシュタット出身の子世代移住者は、ハルバッハ(Harbach)川、ツィビン(Zibin)山脈、ミュールバッハ(Mühlbach)山脈へと広がっていった。ミュールバッハ山脈周辺はウンターヴァルト(Unterwald)の名で知られ、ミュールバッハ(Mühlbach)に集約された。ヘルマンシュタットの北部の定住地には、メディアシュ(Mediasch)近郊のヴァインラント(Weinland)があった。 1211年、ハンガリー王アンドラーシュ2世は、トランシルヴァニア南東端にあるブルツェンラント(Burzenland)の防衛と定住のために、ドイツ騎士団を招聘した。カルパチア山脈の峠をクマン人から守るため、騎士たちは、クロンシュタット(Kronstadt)を含むおびただしい数の城と町を築いた。ブルツェンラント地方の植民化は、ほとんどがアルトラントからの移住者で構成されていた。騎士団の急速な勢力拡大に脅威を感じたアンドラーシュ2世は、1225年に騎士団を追放し、1226年に彼らはプロイセンへ再入植した。それでも、植民者たちはブルツェンラントへとどまった。 ハンガリー王国の中世の東部国境は、ネースナーラントのザクセン人によってその北東部分を、東部分をセーケイ人に、南東部分をドイツ騎士団とブルツェンラント・ザクセン人が築いた城で、南部分をアルトラント・ザクセン人にそれぞれ守らせていた。 「東方植民」も参照
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