中世の小山田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 14:58 UTC 版)
「小山田町 (鹿児島市)」の記事における「中世の小山田」の解説
小山田という地名は鎌倉時代より見え、薩摩国満家院のうちであった。江戸時代初期まで隣接する郡山地域(旧・日置郡郡山町)の一部及び比志島(現在の皆与志町の一部)と共に満家院に属していた。満家院の院司であった加治木氏の加治木資宗が小山田の領主となったが、子の幸光が承久の乱の際に京方についたことで没落して、その後は税所氏が小山田の領地を得た。 南北朝時代から室町時代前期にかけて満家院に対する伊集院氏の影響力が強まり、比志島氏の領地内にも影響を与えていた。貞治2年(1363年)には伊集院忠国によって満家院小山田中俣内水田五町・薗九所が伊集院の円勝寺(のちの広済寺)に寄進されており、満家院内に伊集院氏の私領があったとみられる。応永20年(1413年)から応永21年(1414年)にかけて伊集院頼久が満家院に侵入して小山田の小山田城で島津久豊の一派である比志島久範、小山田範清と争ったが、小山田城を破ることはできなかった。比志島勢は敗走する伊集院勢を犬迫村(現在の犬迫町)や竹之山村(現在の日置市伊集院町竹之山)・石谷村(現在の石谷町)まで追撃した。
※この「中世の小山田」の解説は、「小山田町 (鹿児島市)」の解説の一部です。
「中世の小山田」を含む「小山田町 (鹿児島市)」の記事については、「小山田町 (鹿児島市)」の概要を参照ください。
- 中世の小山田のページへのリンク