中世の御岳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 09:29 UTC 版)
戦国時代の享禄4年(1531年)正月21日には、甲斐守護・武田氏と扇谷上杉氏との婚姻に反発した栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌ら甲斐国人が甲府を退去し、御岳において信虎と抵抗した。さらに反信虎の国人衆には西郡の大井氏、信濃国諏訪郡の諏訪頼満(碧雲斎)らが加わり甲斐へ侵攻した。同年3月3日には韮崎市で行われた河原部合戦において信虎は国人衆を撃破し、反乱は平定された。 武田氏滅亡後の天正10年(1582年)6月、本能寺の変により発生した天正壬午の乱において三河国の徳川家康・相模国の北条氏直が甲斐へ侵攻し、八ヶ岳南麓・七里岩地域において対峙した。徳川家康は韮崎市中田町中條の新府城に本拠を置くと、北杜市須玉町若神子の若神子城に本陣を置いた後北条勢に対して七里岩台上の城砦に軍勢を配置し、御岳においても甲府市御岳町の御岳城、甲斐市下芦沢の御岳芦沢小屋(平見城の烽火台)に御岳衆らの兵が配置された。
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