中世の常滑焼とは? わかりやすく解説

中世の常滑焼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 09:11 UTC 版)

常滑焼」の記事における「中世の常滑焼」の解説

平安時代末期12世紀前半)、猿投窯南部灰釉陶器窯(およびその系譜連なる山茶碗窯)の南下に伴い形成され知多半島古窯跡群母体とするが、灰釉陶器伝統にはない大型の甕や壺を新たに主要な器種として創造することで瓷器中世陶器の主要生産地となった。中世の常滑焼の窯跡は1,000基以上で数千基に及ぶとされるが、その実数は不明過去学説では最高10,000基というものがあるが、根拠不明瞭といわねばならない平安時代末期製品素朴な中にも王朝文化名残感じさせる優美さ持ち経塚などの仏教遺跡用いられる事例少なからずあり、さらに奥州平泉遺跡群大量につかわれていたことが判明している。 鎌倉時代には素で力強い壺、甕などが生産され鎌倉では、おびただしい量の壺・甕・鉢が消費されていることが鎌倉遺跡群発掘調査判明している。そして、平安時代末期以来広く太平洋沿岸中心として流通していたが、鎌倉時代になると、さらにその流通圏は拡大充実している。瀬戸内地方広島県福山市所在する草戸千軒町遺跡は、備前焼生産地に近い立地ながら、鎌倉時代常滑焼数多く出土しており、そこからも、この時期常滑焼流通あり方窺われる。 その数数千基とも言われる中世窯は、広く知多半島丘陵部傾斜面掘られ地下窖窯ちかしきあながま)で、その大半平安時代末期から南北朝期までの期間におさまっている。なお、中世常滑焼代表する大型貯蔵具の生産は、常滑地域中心とする半島中部の窯で行われること多く半島北部南部では、灰釉陶器由来する山茶碗・小碗・小皿などを中心とした生産が行われている。 室町時代になると半島全域広く分布していた窯は旧常滑町周辺集まり、しかも集落近接した丘陵斜面築かれるうになるこの段階では碗・皿類の生産行わず、壺・甕・鉢の生産特化している。また、室町期のある段階半地上式の大窯に窯の構造転換している。そして、その大窯江戸時代常滑焼焼いた窯でもあり、別に鉄砲窯とも呼ばれた古美術分野で「古常滑」と呼ばれるものは、多く窖窯焼かれ製品指しているが、その区分はかならずしも明確ではなく大窯製品をも古常滑中に入れ場合少なくない

※この「中世の常滑焼」の解説は、「常滑焼」の解説の一部です。
「中世の常滑焼」を含む「常滑焼」の記事については、「常滑焼」の概要を参照ください。

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