中世の市比野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 01:52 UTC 版)
長寛2年(1164年)には新田八幡宮領として「市比野浦」が見え、建久8年(1197年)の「薩摩国図田帳」には新田八幡宮が所有する社領は15町であった。宝治元年(1247年)頃から渋谷氏(入来院氏)が支配を置こうとしていたが、鎌倉時代までは渋谷氏は当地を完全に支配していたわけではなく、相伝の所職であったとされている。 鎌倉時代末期頃は公的には新田八幡宮領となっていた。南北朝時代になると渋谷氏の支配が強化され、貞治7年(1368年)の渋谷重成の譲状案に「薩摩国入来院内市比野名主職」と見え、以降市比野は渋谷氏相伝の土地となった。応永2年(1395年)から応永4年(1397年)にかけて、薩摩守護である島津伊久と大隅守護である島津元久の軍は渋谷氏を攻め市比野城を攻め落とした。 一時的に国分氏・執印氏の一族で、惟宗師久の子孫といわれる旧市比野名主を当地に復させるが、その後入来院全域が渋谷氏の所領となった。その後永禄12年に入来院氏が島津氏に降りるまで続いた。文禄年間に行われた検地後は島津氏の直轄領となった。天文8年(1539年)には市比野の前之園屋敷において入来院重聡と島津貴久が会談を行い、入来院氏と島津氏の友好盟約が結ばれた。
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