中世の宮浦名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 09:49 UTC 版)
鎌倉時代から戦国時代まで「宮浦名」と称しており、大隅国吉田院のうちであった。 建治2年(1276年)の大隅国在庁石築地役配符に「宮浦四丁八段<四尺八寸>二郎大夫清持領」とある。清持は吉田氏の庶流であるとされる。戦国時代には島津氏の領地となっており、永正14年(1517年)の島津氏老臣連署坪付によれば宮之浦と本名(現在の本名町)の1町1反余りが萩野又左衛門に宛がわれた。 薩摩藩の地誌である三国名勝図会によれば天正15年(1587年)に吉田院の全域が大隅国から薩摩国に編入されたとされる。
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