中世のマジャル人都市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 07:38 UTC 版)
マジャル人のハンガリー征服後(およそ9世紀終わりから10世紀初頭にかけて)、州(comitatus)の首都は、ペーチだけでなく近隣の城バラニャヴァール(バラニャ城)も含むバラニャ州(コミタトゥス・バラニャ、comitatus Balanya)が建設された。しかしペーチは、重要な信仰の中心地で司教座のある地であった。ラテン語の記録では、市はクインクエ・エックレシアエ(Quinque Ecclesiae)と記載されている。 街の北端部に建立された聖堂は、ハンガリーのキリスト教会としてはもっとも古いものに属する。1064年、シャラモン王が従弟ゲーザ(のちのゲーザ1世)と和平を結ぶと、彼らはペーチで復活祭を祝った。そのすぐ後に聖堂が焼け落ちた。その後同じ位置に再建された聖堂は増改築を繰り返し、オスマン帝国支配時には破壊された。現在のものは19世紀末に改築されたネオロマネスク様式の巨大な建物である。地下には11世紀に建てられた礼拝堂が残っている。 いくつかの修道会がペーチへ定住した。ベネディクト会は1076年に初めてやってきた。1181年、市内には既に病院が建っていた。国内最初のドミニコ会修道院が、1238年にペーチに建てられた。 ペーチ司教ヴィルヘルムの助言を受け、ラヨシュ1世は1367年にペーチに大学を建てた。ハンガリー初の大学である。創立文書はウィーン大学の創立文書と一語一語同一であり、大学は神学以外の全ての芸術と科学を教えることを是としていた。 1459年、ハンガリーで最も重要な中世の詩人ヤヌス・パンノニウスがペーチ司教となった。彼はペーチの文化的重要性を強化した。
※この「中世のマジャル人都市」の解説は、「ペーチ」の解説の一部です。
「中世のマジャル人都市」を含む「ペーチ」の記事については、「ペーチ」の概要を参照ください。
- 中世のマジャル人都市のページへのリンク