謀反の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 15:08 UTC 版)
陶隆房らが謀反を起こした理由については、以下の点が指摘されている。 義隆の治世・政務に対する反発 第一次月山富田城攻め失敗後の義隆が、公家のような文弱な生活を始めたことに対する反発(乱に巻き込まれた公家たちも容赦なく殺害されている)と、それらにかかる浪費と増税という悪政の是正。 武功派(陶隆房、内藤興盛など)と文治派(相良武任)の関係が決裂し、なおかつ武任を重用し続けた義隆への不満。武功派と文治派の実態については、評定衆を務める守護代クラスの重臣と山口の政庁にいた奉行衆や地方の各郡に置かれた郡代などの当主直属の吏僚との対立とも考えられている。義隆の祖父にあたる大内政弘は晩年(応仁の乱終結後)に自らの権限拡大のため、山口では奉行衆などの政庁吏僚が、それ以外の領国では政弘が任じた郡代に地方支配を当たらせる体制を構築し(守護代の家臣が郡代に任じられた例もあるが、その職務は山口の政庁から指示を受けていた)、その体制は義興・義隆へも継承された。しかしこの体制は、それぞれの領国で影響力を強めたい守護代たちと、当主の意を奉じて郡の統治を行う郡代らとの衝突の要因を生んだ。当主の意向を受けた吏僚たちによって租税徴収などをはじめとする大内氏領国の内政が掌握される一方で、出雲遠征の敗戦後に軍事行動が減少すると軍務を担ってきた守護代の立場が失われていった。その結果、大内氏の政務における実権を奪われた陶晴賢ら守護代の不満の矛先が、相良武任をはじめとする吏僚たちとその背後にいる当主・義隆に向けられたと考えられる。 天文19年(1550年)に隆房が毛利に宛てた書状によると、当初は義隆を隠居させて嫡子義尊を当主に据える主君押込を考えていたが、義尊を生んだ継室おさいの方を中心とした派閥(おさいの方に推挙されて取り立てられた者など)が存在しているため、前述の問題を解決させるために義隆・義尊父子を討って大友晴英を擁立するに至った。さらに当時は、義尊は義隆の実子では無いという噂もあり(大内義隆記)、事態に拍車をかけた可能性がある。なお、当初計画を変更したのは天文20年(1551年)頃とする場合もあるが、時期ははっきりしない。 義隆と隆房の対立 もともと東大寺の旧領であった陶の領地の一部を、かつて義隆が東大寺に返還しようとしたことに対する恨み(ただし、最終的に領地返上は実行はされていない)。 文明14年(1482年)に、隆房の祖父にあたる陶弘護が吉見正頼の伯父にあたる吉見信頼に暗殺された山口大内事件の背景として、大内政弘が、応仁の乱で出陣中に留守を守って国政を握った弘護の排除を図った疑惑があり(殺害した吉見信頼はその場で討たれたものの、遺族は赦免されている)、以来、主家・大内氏による当主権威の強化の動きに対して陶氏一族が抱き続けてきた不信感が義隆と隆房の代になって表面化してきたというもの。
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