情勢の悪化、そして最期とは? わかりやすく解説

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情勢の悪化、そして最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 03:58 UTC 版)

大宝寺義氏」の記事における「情勢の悪化、そして最期」の解説

天正9年1581年)、最上氏領内馬揃え行い敵味方区別明確にすると、その事敵対勢力への脅迫へと繋がり鵜沼城新庄城主・日左京亮降伏始まりとし、村山郡内の諸将続々恭順敵対していた真室城主・鮭延秀綱抵抗の末に降伏大宝寺領は最上領と隣接した事で意図せず争いを招く事となる。 天正10年1582年)、豊島氏挙兵支援して以来対立関係にあった檜山郡安東氏対抗するため、義氏は陸奥国大浦為信同盟を結び、安東氏注意を北に引きつけた。そして3月に義氏は村山郡由利郡二手向けて出陣する。由利郡では数々の戦で勝利を収め北進し、小介川氏残し由利衆の大部分は義氏に降った。しかし、大浦氏対峙していたはずの安東愛季が小介川氏への救援のため軍を率いて南下する援軍到来によって新沢城本丸を残してことごとく焼き払っていた大宝寺軍はあと一歩のところで利を得ることなく撤退余儀なくされた。また村山郡でも清水城攻め立てたが、清水延・最上勢の頑強な抵抗により進出阻まれた。その結果双方戦いにおいてめぼしい戦果をあげることができなかった義氏は度重なる遠征の失敗将兵達を厭戦気分してしまいその事信頼低下繋がった同年6月本能寺の変織田信長横死し、これにより後ろ盾失った義氏の権威失墜し屋形号何の意味もなさなくなる。更に折り悪く最上氏安東氏同盟結んだことが情勢悪化拍車をかけた。このように状況悪化してゆくと大宝寺氏庶流である砂越氏や来次氏も義氏から距離を置くようになり次第軍事力失っていった。同年8月には同盟者である小野寺氏由利衆との間に争い勃発。この争い由利衆は由利郡から小野寺氏勢力排除成功した為に由利郡南域を傘下に含む大宝寺勢力由利郡に兵を出さざるを得ない状況となる。 天正11年1583年1月、義氏は、出羽山地雪解け前に最上氏先手を打つために大軍率いて由利郡侵攻した。しかし、安東氏最上氏との内通により砂越・来次氏は出陣せず日和見したため兵力は不足、由利郡から勢力後退させた小野寺氏からは援軍得られず、積雪吹雪に足を取られたため劣勢強いられ安東氏大敗喫して荘内へと退却する帰還した義氏は砂越・来次氏を懲罰する軍を編成し側近酒田代官前森蔵人指揮預けたが、前森は一旦は出陣したものの、預かった兵力逆手尾浦城包囲。この状況見た義氏は観念し城外高館山にて自害した享年33。義氏の最期については、暴政多かったゆえ見限られたという憶測 があるが、『庄内年代記』『湊、檜山合戦覚書』などの史料は、前森謀反起こし、義氏は討ち取られたと淡白に記述するのみであり、その最期謀反の理由については明白になっていない。 義氏の死後家督藤島城主で弟の義興が継ぎ、また前森蔵人東禅寺城に入り東禅寺義長(後に氏永に改名)と称し酒田領した結局、荘内の地は最上氏の下、東禅寺・来次・大宝寺砂越の四氏がそれぞれ治める形となった

※この「情勢の悪化、そして最期」の解説は、「大宝寺義氏」の解説の一部です。
「情勢の悪化、そして最期」を含む「大宝寺義氏」の記事については、「大宝寺義氏」の概要を参照ください。

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