情勢認識
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ソ連はクルスクの戦い以後、対ドイツ戦で優勢に転じていたが、同じころアメリカとイギリスは対日戦で南洋諸島やインドを中心に攻勢を強めていた。ルーズベルト大統領は、太平洋戦争での日本の降伏にはソ連の対日参戦が有益とみていた。1943年(昭和18年)10月、連合国のソ連、アメリカ、イギリスはモスクワで外相会談を持ち、コーデル・ハル国務長官からモロトフ外相にルーズベルトの意向として、千島列島と樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。このときソ連はドイツを敗戦させた後に参戦する方針と回答した。 1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談ではこれを具体化し、ドイツ降伏後3ヵ月での対日参戦を約束。ソ連は1945年(昭和20年)4月には、1941年(昭和16年)に締結され、5年間の有効期間を持つ「日ソ中立条約の延長を求めない」ことを、日本政府に通告した。ヨーロッパ戦勝後は、シベリア鉄道をフル稼働させて、ソ連と満州国の国境に、陸軍による軍事力の集積を行った。 日本政府は、日ソ中立条約を頼みに、ソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとした。しかしソ連が中立条約の不延長を宣言したことや、ソ連軍の動向などから、ドイツ降伏一ヵ月後の戦争指導会議において総合的な国際情勢について議論がなされた。この中で「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(1945年(昭和20年))の8月か遅くても9月上旬あたりが危険」「8月以降は厳戒を要する」と結論付けている。 7月26日、ポツダム宣言が発表されたが日本政府はこれを黙殺した。関東軍首脳部も事態を重く見ていなかった。総司令官は8月8日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していたことに、それは表れている。時の山田総司令官は戦後に「ソ軍の侵攻はまだ先のことであろうとの気持ちであった」と語っている。ただし、山田総司令官は事態急変においては直ちに新京に帰還できる準備を整えており、事実ソ連軍の攻勢作戦が発動して、すぐに司令部に復帰している。 なお、6月に大本営の第五課課長白木末政大佐は新京において、状況の切迫性を当時の関東軍総参謀長に説得したところ、「東京では初秋の候はほとんど絶対的に危機だとし、今にもソ軍が出てくるようにみているようだが、そのように決め付けるものでもあるまい」と反論したと言われており、ソ連軍の攻勢をある程度予期していながらも、重大な警戒感は持っていなかった[要出典]。 関東軍の部隊が南方戦線へと徴用されていた為、満州の長い国境を防衛出来るだけの十分な戦力は既に失われていたが、中立条約を信じ切っていた関東軍や満州国の要人等は、その家族を空襲に遭っている日本から満州へ連れて来ていた。 関東軍第一課(作戦課)においては、参謀本部の情勢認識よりも遥かに楽観視していた。当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていたが、「極東ソ連軍の後方補給の準備は10月に及ぶ」と考えていた。つまり、関東軍作戦課においては、1945年(昭和20年)の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は、早くとも9月以降、さらには翌年に持ち越すこともありうると判断していたのだった。 関東軍の前線部隊においては、ソ連軍の動きについて情報を得ており、第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面において兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われていることを察知、特に東方面においては火砲少なくとも200門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。そのため8月3日、直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長草地貞吾参謀に情勢判断を求めたところ、「関東軍においてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は9月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。その旨は関東軍全体に明示されたが、8月9日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。 さらに第四軍司令官上村幹男中将は、情勢分析に非常に熱心であり、7月ころから絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究したところ、8月3日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。また8月4日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えたものの、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた。 また、事前に満州の辺境を視察していた参謀本部作戦課の朝枝繁春中佐も、4月の段階でソ連の侵攻を看破しており、戦力増強を唱え続けたその結果として、5月30日になって作戦課が対ソ作戦準備命令を出した。しかし、それを受けた関東軍が作戦計画を策定したのは7月に入ってからであり、その内容である後退持久戦準備の終了が9月末を予定していたことなどから、関東軍首脳の楽観視が準備を遅らせるのに大きく影響していた。 他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕やキスカ撤退により千島への圧力が増大したことから、同地域における対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。が、1945年(昭和20年)5月9日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、再び対ソ作戦に転換する。このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識されるが、兵力が限られていたことから、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しないこととした。 しかし、上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。千島においては既に制海権が危機に瀕していることから、北千島では現状の兵力を維持、中千島兵力は南千島への抽出が図られた。 樺太において、陸軍の部隊の主力となっていたのは第88師団であった。同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から8月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、現体勢に変化なしという方面軍の回答を得たのみだった。 対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは、8月6・7日の豊原での会議においてのことであった。千島においては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更は、それほど大きな影響を与えなかった。
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