情勢認識とは? わかりやすく解説

情勢認識

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 13:56 UTC 版)

ソ連対日参戦」の記事における「情勢認識」の解説

ソ連クルスクの戦い以後対ドイツ戦優勢に転じていたが、同じころアメリカとイギリス対日戦南洋諸島インド中心に攻勢強めていた。ルーズベルト大統領は、太平洋戦争での日本の降伏にはソ連の対日参戦有益とみていた。1943年昭和18年10月連合国ソ連アメリカ、イギリスモスクワ外相会談持ちコーデル・ハル国務長官からモロトフ外相ルーズベルト意向として、千島列島樺太ソ連領として容認することを条件参戦要請した。このときソ連ドイツ敗戦させた後に参戦する方針回答した1945年昭和20年2月ヤルタ会談ではこれを具体化しドイツ降伏後3ヵ月での対日参戦約束ソ連1945年昭和20年4月には、1941年昭和16年)に締結され5年間の有効期間を持つ「日ソ中立条約延長求めない」ことを、日本政府通告したヨーロッパ戦勝後は、シベリア鉄道フル稼働させて、ソ連満州国国境に、陸軍による軍事力集積行った日本政府は、日ソ中立条約頼みに、ソ連仲介し連合国との外交交渉働きかけ強めて絶対無条件降伏ではなく国体保護国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとした。しかしソ連中立条約の不延長宣言したことや、ソ連軍の動向などから、ドイツ降伏一ヵ月後の戦争指導会議において総合的な国際情勢について議論なされたこの中でソ連軍の攻勢時間の問題であり、今年1945年昭和20年))の8月遅くて9月上旬あたりが危険」「8月以降厳戒要する」と結論付けている。 7月26日ポツダム宣言発表されたが日本政府はこれを黙殺した。関東軍首脳部事態重く見ていなかった。総司令官8月8日には新京発ち関東局総長要請され結成した国防団体結成式に参列していたことに、それは表れている。時の山田総司令官戦後に「ソ軍の侵攻はまだ先のことであろうとの気持ちであった」と語っている。ただし、山田総司令官事態急変においては直ち新京帰還できる準備整えており、事実ソ連軍の攻勢作戦発動して、すぐに司令部復帰している。 なお、6月大本営第五課長白木政大佐は新京において、状況切迫性を当時関東軍総参謀長説得したところ、「東京では初秋の候はほとんど絶対的に危機だとし、今にもソ軍が出てくるようにみているようだが、そのように決め付けるものでもあるまい」と反論したと言われており、ソ連軍の攻勢ある程度予期していながらも、重大な警戒感持っていなかった[要出典]。 関東軍部隊南方戦線へと徴用されていた為、満州長い国境防衛出来るだけ十分な戦力は既に失われていたが、中立条約信じ切っていた関東軍満州国要人等は、その家族空襲遭っている日本から満州へ連れて来ていた。 関東軍第一課作戦課)においては参謀本部の情勢認識よりも遥かに楽観視していた。当時関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地増設武器資材蓄積急ぎ基礎訓練続けていたが、「極東ソ連軍後方補給準備10月に及ぶ」と考えていた。つまり、関東軍作戦においては1945年昭和20年)の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害補填を行うソ連軍は、早くとも9月以降さらには翌年持ち越すこともありうる判断していたのだった関東軍前線部隊においてはソ連軍動きについて情報得ており、第三方面軍作戦参謀回想によればソ連軍満ソ国境三方面において兵力拡充され作戦準備活発に行われていることを察知、特に東方面においては火砲少なくとも200門以上が配備されており、ソ連軍侵攻必至であると考えられていた。そのため8月3日直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長草地貞吾参謀情勢判断求めたところ、「関東軍においてソ連が今直ち攻勢取り得ない体勢にあり、参戦9月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。その旨関東軍全体明示されたが、8月9日早朝草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。 さらに第四軍司令官上村幹男中将は、情勢分析に非常に熱心であり、7月ころから絶えず北および西方面における情報収集し独自に総合研究したところ、8月3日ソ連軍対日作戦準備終了し、その数日中侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍直ちに対応戦備を整え始めた。また8月4日関東軍総参謀長ハイラル方面出張中と知り帰還途上チチハル飛行場着陸要請し直接面談することを申し入れて見解伝えたものの、総参謀長第四軍としての独自の対応について賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていない伝えた。そこで上村軍司令官部下の軍参謀長を西(ハイラル方面作戦主任参謀北方面急派してソ連軍侵攻について警告し侵攻始まった計画通りに敵を拒止するように伝えたまた、事前に満州辺境視察していた参謀本部作戦課の朝枝繁春中佐も、4月段階ソ連侵攻看破しており、戦力増強唱え続けたその結果として、5月30日になって作戦課が対ソ作戦準備命令出した。しかし、それを受けた関東軍作戦計画策定したのは7月入ってからであり、その内容である後退持久戦準備終了9月末を予定していたことなどから、関東軍首脳楽観視準備遅らせるのに大きく影響していた。 他方北海道樺太千島方面管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕キスカ撤退により千島への圧力増大したことから、同地域における対米戦備充実志向樺太においても国境付近より南部要地防備勧めていた。が、1945年昭和20年5月9日大本営から「対米作戦参戦セル場合ニ於ケル北東方面作戦計画要領」で対ソ作戦準備指示され、再び対ソ作戦転換するこのため陸上国境接す樺太重要性認識されるが、兵力限られていたことから、北海道本島優先、たとえソ連軍侵攻してきたとしても兵力増強しないこととした。 しかし、上記のような戦略転換にもかかわらず国境方面充当する兵力量が定まらないなど、実際施策停滞していた。千島においては既に制海権危機瀕していることから、北千島では現状兵力維持中千島兵力南千島への抽出図られた。 樺太において、陸軍部隊主力となっていたのは第88師団であった。同師団偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から8月攻勢必至判断方面軍報告すると共に師団の対ソ転換上申したが、現体勢変化なしという方面軍回答得たのみだった。 対ソ作戦計画整えられ、各連隊長下島内の主要幹部に対ソ転換告げられたのは、8月6・7日の豊原での会議においてのことであった千島においては前記大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦前提とした陣地構築なされていたため、仮想敵変更は、それほど大きな影響与えなかった。

※この「情勢認識」の解説は、「ソ連対日参戦」の解説の一部です。
「情勢認識」を含む「ソ連対日参戦」の記事については、「ソ連対日参戦」の概要を参照ください。

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