あがの‐やき【上野焼】
上野焼
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上野焼 |
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あがのやき |
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陶磁器 |
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茶器、酒器、花器、飲食器、香器、装飾器 |
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17世紀の初め(1602年)に細川忠興が小倉藩の藩主になったとき、朝鮮の陶工を招き、一族に当地上野で登り窯を作らせたのが始まりです。 忠興は、千利休から直接教えを受け、茶道の奥義を極めた大名でした。この窯では、忠興の目にかなうような格調高い作品が作られたと言われています。後に、藩窯として、小堀遠州という当時有名な茶人の好みにあった茶器を多く作り、遠州七窯の一つに数えられています。 |
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福岡県 |
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昭和58年4月27日 |
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発色や釉薬(ゆうやく)の流れ方、肌合、艶、窯変(ようへん)等、色々な陶器を楽しむことができます。絵付けはあまりせず、主に釉薬掛けです。茶陶として発展しただけに薄手の美陶が多いのが特徴です。 |
上野焼
上野焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/06 01:26 UTC 版)

上野焼(あがのやき)は、福岡県田川郡香春町、福智町、大任町で焼かれる陶器。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の引き上げの際、加藤清正が連れ帰った尊楷(上野喜蔵)が、細川忠興の小倉城入城の際に招かれ、豊前国上野に開窯したのが始まりである[1]。最初の窯は皿山窯(本窯)、釜の口窯、岩谷窯(唐人窯)の3つで、これらは上野古窯と呼ばれる[2]。江戸時代に入ると、小堀遠州に高く評価され、遠州七窯の一つにも数えられるほど茶人に好まれた[1]。明治期には衰退の様相を見せたが[3]、1902年に復興、1983年には通産省(現在の経産省)指定伝統的工芸品の指定を受けた[4]。
上野焼の特徴は他の陶器と比べると生地が薄く、軽量であることである。また使用する釉薬も非常に種類が多く、青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬を用い、窯変(窯の中で釉薬が溶け、千変万化の模様を作り出すこと)を生み出すのが特徴で、絵付けは基本的に用いない[5]。
関連項目
脚注・出典
- ^ a b 山本久義「地域社会活性化と地場産業の役割 : 上野焼の振興戦略事例を中心に」『島根大学論集教育科学』第1号、九州産業大学商学会、2001年9月、1-18頁、hdl:11178/5927。
- ^ 日本陶磁協会, 佐藤進三, 三上次男, 曽野寿彦, 清原邦武『上野古窯調査報告書』日本陶磁協会〈陶瓷〉、1955年、25頁。 NCID BB06041045 。
- ^ 「高取焼と上野焼」『地学雑誌』第6巻第7号、東京地学協会、1894年、413-414頁、doi:10.5026/jgeography.6.413a。
- ^ “上野焼の歴史”. 上野焼協同組合. 2016年11月26日閲覧。
- ^ “上野焼の特徴”. 上野焼協同組合. 2016年11月26日閲覧。
外部リンク
上野焼と同じ種類の言葉
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