愚堂東寔とは? わかりやすく解説

ぐどう‐とうしょく〔グダウ‐〕【愚堂東寔】

読み方:ぐどうとうしょく

[1577〜1661]安土桃山から江戸前期臨済宗の僧。美濃の人。妙心寺聖沢庵の庸山景庸師事して法を継ぎ妙心寺三度住し後水尾院らの帰依受けた大円宝鑑国師


愚堂東寔

読み方ぐとう とうしょく

江戸前期臨済宗の僧。美濃生。臨済宗美濃大仙寺中興。姓は伊藤、愚堂は字。後水尾上皇信頼を得、また将軍家光より府中召され法要行った門弟至道無難や一文守らがいる。寛文元年(1661)寂、85才。

愚堂東寔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 20:02 UTC 版)

愚堂東寔

愚堂東寔(ぐどうとうしょく、天正5年4月8日1577年4月25日)- 寛文元年10月1日1661年11月22日))は、禅宗臨済宗の高。大本山妙心寺第百三十七世住持。父は伊藤紀内、母は斎藤氏家臣の娘とされる。諡号は大圓寶鑑國師

沿革

美濃国大森(現在の岐阜県山県市大森)に生まれ、15歳で伊自良東光寺において出家して瑞雲に師事した。

19歳で諸国へ旅に出て宇都宮興禅寺の物外や播磨国赤穂三友寺の南是の元などを訪れた後、妙心寺聖沢院の庸山景庸に師事し、愚堂の号を与えられて印可を受けた(後に妙心寺住持を三度勤めた)。

その後臨済宗復興のため、美濃国(岐阜県八百津町)の大仙寺伊勢国三重県伊勢市)の中山寺、江戸東京都台東区)の正燈寺を開山した。

最期は、京都山科の華山寺にて85歳で没する。死去の翌年には国師号を授けられ大圓寶鑑國師と追諡されている。

後水尾天皇徳川家光保科正之中院通村春日局など多くの公家武家から帰依を受けている。

また、宮本武蔵も青年時に妙心寺にいた愚堂の元へ参禅している。弟子に至道無難がいる。




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「愚堂東寔」の関連用語

愚堂東寔のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



愚堂東寔のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの愚堂東寔 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS