慧牧時代
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享保2年(1717年)下野国に生まれた。白隠門下に入るまでの経歴は全く不明である。大名庶子のため身元を隠していたという説もあるが、特に根拠が示されているわけではない。延享3年(1746年)、駿河国原宿(沼津市原)の松蔭寺を訪れ、白隠慧鶴の門下に入った。当初は慧牧と号した。 白隠に20年間師事する間、松蔭寺から30里余り離れた葦原西青島(藤枝市上青島か)に庵を構えた。『荊棘叢談』では、禅室には深夜にのみ訪れて人前には姿を見せず、また松蔭寺には講会の日に現れて直帰するのみで、白隠が侍者を以って呼び止めても応じなかったという。 一方『白隠年譜』草稿によれば、宝暦5年(1755年)、東嶺が龍津寺で維摩経を説いた際、慧牧が知客を務め、石見浜田藩主・松平康福を応接している。また、宝暦8年(1758年)春にも、愚堂東寔百年忌に当たり白隠が美濃国神戸村(岐阜県安八郡神戸町神戸)瑠璃光寺に招かれた際、門人が反対したため、貫宗慧林の提案で遂翁が取り仕切っている。一行は美濃、伊勢、尾張の各所の寺を回って帰国した。『荊棘叢談』では、桑名宿天祥寺(現在埼玉県行田市に移転)での説法からの帰途、七里の渡しの舟が逆風を受けて転覆し、遂翁含め全乗客が海に沈んだが、遂翁は手で抱えられるが如く浮上し、釣り舟に救けられたという逸話を載せる。 白隠の老衰に伴い、白隠とその門下の間では早くから後継者問題が立ち上がっていた。筆頭弟子の東嶺円慈が有力であったものの、反対派の存在により紛糾し、長らく後継が決まらない状態にあった。明和元年(1764年)白隠が傘寿を迎えるにあたり、東嶺が信頼の置け、後継者争いの埒外にあった遂翁を推挙する形で決着し、2月15日の大応録会において正式に決定された。
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