慧牧時代とは? わかりやすく解説

慧牧時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 19:46 UTC 版)

遂翁元盧」の記事における「慧牧時代」の解説

享保2年1717年下野国生まれた白隠門下に入るまでの経歴は全く不明である。大名庶子のため身元隠していたという説もあるが、特に根拠示されているわけではない延享3年1746年)、駿河国原宿沼津市原)の松蔭寺訪れ白隠慧鶴門下入った当初は慧牧と号した白隠20年間師事する間、松蔭寺から30里余離れた葦原西青島(藤枝市上青島か)に庵を構えた。『荊棘叢談』では、禅室には深夜にのみ訪れて人前には姿を見せず、また松蔭寺には講会の日に現れ直帰するのみで、白隠侍者以って呼び止めても応じなかったという。 一方白隠年譜草稿によれば宝暦5年1755年)、東嶺龍津寺維摩経説いた際、慧牧が知客務め石見浜田藩主・松平康福応接している。また、宝暦8年1758年春にも、愚堂東寔百年忌に当たり白隠美濃国神戸村岐阜県安八郡神戸町神戸瑠璃光寺招かれた際、門人反対したため、貫宗慧提案で遂翁が取り仕切っている。一行美濃伊勢尾張各所の寺を回って帰国した。『荊棘叢談』では、桑名宿天祥寺(現在埼玉県行田市移転)での説法からの帰途七里の渡しの舟が逆風受けて転覆し、遂翁含め乗客が海に沈んだが、遂翁は手で抱えられる如く浮上し釣り舟に救けられたという逸話載せる白隠老衰に伴い白隠とその門下の間では早くから後継者問題立ち上がっていた。筆頭弟子東嶺円慈が有力であったものの、反対派存在により紛糾し長らく後継決まらない状態にあった明和元年1764年白隠傘寿迎えにあたり東嶺信頼置け後継者争い埒外にあった遂翁を推挙する形で決着し2月15日大応録会において正式に決定された。

※この「慧牧時代」の解説は、「遂翁元盧」の解説の一部です。
「慧牧時代」を含む「遂翁元盧」の記事については、「遂翁元盧」の概要を参照ください。

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