遂翁元盧とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 遂翁元盧の意味・解説 

遂翁元盧

読み方すいおう げんろ

江戸後期臨済宗の僧。駿河松蔭寺二世下野生。初名は慧牧、遂翁は字。30才を過ぎて白隠禅師謁し師事する同門東嶺円慈と共に門下二神足と賛えられる東嶺円慈勧めにより松蔭寺を継ぐ。詩酒碁画を好み、自ら酔翁と称し、のち人の勧めにより遂翁と改める。池大雅らとも交わった寛政元年1789)寂、73才。

遂翁元盧

江戸中・後期臨済宗の僧。駿河松蔭寺二世下野生。初名は慧牧、遂翁は字。30才を過ぎて白隠禅師謁し師事する同門東嶺円慈と共に門下二神足と賛えられる東嶺円慈勧めにより松蔭寺を継ぐ。詩酒碁画を好み、自ら酔翁と称し、のち人の勧めにより遂翁と改める。池大雅らとも交わった寛政元年1789)寂、73才。

遂翁元盧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 19:46 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
遂翁元盧
享保2年 - 寛政元年12月20日
1717年 - 1790年2月3日
諡号 宥恵妙顕禅師
生地 下野国栃木県
没地 駿河国駿東郡原宿東町松蔭寺
静岡県沼津市原128番地)
宗旨 臨済宗
宗派 妙心寺派
寺院 松蔭寺
白隠慧鶴
弟子 春叢紹珠
著作 『宝蔵万蔵塒』

遂翁元盧(すいおう げんろ、享保2年(1717年) - 寛政元年12月20日1790年2月3日))は江戸時代中期の臨済宗妙心寺派の僧。白隠慧鶴の弟子で、静岡県沼津市松蔭寺住職を継いだ。俗姓名は不明。前号は慧牧。浮島老師(翁)とも称した。諡号は宥恵妙顕禅師。

東嶺円慈、大休彗昉、霊源彗桃と並び白隠門下四天王の一人で、特に東嶺との二人は二神足と称される。二人は「大器(機)遂翁、繊細東嶺」と形容されるが、書画には正反対の性質が表れることが指摘される。坐禅、読経を行わず、人付き合いを避け、飲酒、書画、囲碁を好む風狂な人物であったとされる。

生涯

遂翁についてまとまって記された史料は『荊棘叢談』が唯一である。白隠下四世妙喜宗績が天保14年(1843年)刊行した白隠門人等についての逸話集で、後世の遂翁に関する記述は専らこれに基づく。いわゆる『白隠年譜』『東嶺年譜』にも断片的に遂翁に関する記事があり、信頼性ではこちらが勝る。

慧牧時代

享保2年(1717年下野国に生まれた。白隠門下に入るまでの経歴は全く不明である。大名庶子のため身元を隠していたという説もあるが、特に根拠が示されているわけではない。延享3年(1746年)、駿河国原宿沼津市原)の松蔭寺を訪れ、白隠慧鶴の門下に入った。当初は慧牧と号した。

白隠に20年間師事する間、松蔭寺から30里余り離れた葦原西青島(藤枝市上青島か)に庵を構えた。『荊棘叢談』では、禅室には深夜にのみ訪れて人前には姿を見せず、また松蔭寺には講会の日に現れて直帰するのみで、白隠が侍者を以って呼び止めても応じなかったという。

一方『白隠年譜』草稿によれば、宝暦5年(1755年)、東嶺が龍津寺で維摩経を説いた際、慧牧が知客を務め、石見浜田藩主・松平康福を応接している。また、宝暦8年(1758年)春にも、愚堂東寔百年忌に当たり白隠が美濃国神戸村(岐阜県安八郡神戸町神戸)瑠璃光寺に招かれた際、門人が反対したため、貫宗慧林の提案で遂翁が取り仕切っている。一行は美濃、伊勢尾張の各所の寺を回って帰国した。『荊棘叢談』では、桑名宿天祥寺(現在埼玉県行田市に移転)での説法からの帰途、七里の渡しの舟が逆風を受けて転覆し、遂翁含め全乗客が海に沈んだが、遂翁は手で抱えられるが如く浮上し、釣り舟に救けられたという逸話を載せる。

白隠の老衰に伴い、白隠とその門下の間では早くから後継者問題が立ち上がっていた。筆頭弟子の東嶺円慈が有力であったものの、反対派の存在により紛糾し、長らく後継が決まらない状態にあった。明和元年(1764年)白隠が傘寿を迎えるにあたり、東嶺が信頼の置け、後継者争いの埒外にあった遂翁を推挙する形で決着し、2月15日の大応録会において正式に決定された。

遂翁時代

同年4月に京妙心寺に登板し、遂翁元盧と号した。初めは酔翁と号したが、妙心寺塔頭養源院院主の意見で遂翁と改めたという。転版式の後大坂に遊び、12月に帰国した。一旦は松蔭寺に住んだが、白隠との同居を厭い、翌年には庵原観音院に退居した。

同年白隠の江戸行の際、遂翁も東嶺、霊源と共に大磯宿まで見送りに出、鎌倉を経て江戸至道庵に寓居した。白隠の病の知らせを受けると、遂翁単独で見舞いに参じている。明和6年(1769年)、遂に白隠が病死すると、遂翁はこれを看取って松蔭寺に身を落ち着けた。しかし、教えを請う人がいると東嶺を訪ねるよう勧め、東嶺、大休、霊源等が人と会うよう説得を行った。

安永3年(1774年)8月、白隠の七回忌に当たって参詳語要を説き、ようやく初めての説法を行った。以降勢力的に活動し、天明4年(1784年)の十七回忌では松源録を説き、その他浜松新橋村(浜松市南区新橋町)大通院で人天眼目、興津宿静岡市清水区興津)清見寺碧巌録を説いている。

この期の遂翁には弟子も大勢集った。『荊棘叢談』には琉球から来た僧との逸話が記される。遂翁は僧に隻手の声を示したが、3年後帰国の期日に及んでも悟りに至らなかった。7日座禅せよというが悟らない。また7日与えるも変わらない。「古人、得道を三七日の内においてす」として更に7日与えても悟らなかった。更に5日与えたが悟らない。ついに「三日の後いまだ徹了せずんば、即ち死し去れ」と言い放ち、僧は身命を放って座禅し、3日後大悟に至ったという。

沼津宿沼津市幸町)永明寺で五祖録を説いた後病を発した。寛政元年(1789年)夏、峨山慈棹が江戸湯島東京都文京区湯島)麟祥院碧巌録を提唱するに応じ、周囲の反対を押し切り病を押して出向いた。帰途暑さに倒れ、7月に松蔭寺に戻ってからは病床に臥し、12月20日(1790年2月3日)側臥位のまま死去した。遺偈は「仏祖を欺瞞すること七十三歳、末後の一句、什麼(なん)ぞ什麼(なん)ぞ。喝。」

松蔭寺は豊後国出身の門弟春叢紹珠が継いだ。

著作

遂翁の書画は静岡県下をはじめ各地の寺院、図書館に豊富に残されているが、著書は乏しい。

『宝蔵万蔵塒』は寛政元年(1789年)に行われた最期の仮名法語の草稿である。松蔭寺に自筆本が残り、『白隠和尚全集』第8巻に翻刻された。

『白隠和尚行状』は白隠の略記を漢文体で綴った短い文章である。天保13年(1842年)刊『駿河雑誌』43巻に採録された。昭和37年(1962年)陸川堆雲が『駿河雑誌』より書き抜いた写本が駒澤大学図書館に残る。

国立国会図書館には松蔭舎遂翁編『詞枝折』なるものの写本がある。

著書に『浮島老師熊野夜話』が挙げられることもあるが、詳細不明。明治18年(1885年長野県北佐久郡小諸町土屋善兵衛より『遂翁和尚説法』が刊行されている。内容は仮名法語である。

参考文献

  • 荻野独園撰『近世禅林僧宝伝』上巻、小川多左衛門、1890年
  • 加藤正俊『白隠和尚年譜』、思文閣出版、1985年
  • 土屋善兵衛編『遂翁和尚説法』、土屋善兵衛、1885年
  • 西村惠信『東嶺和尚年譜』、思文閣出版、1985年
  • 白隠和尚全集編纂会編『白隠和尚全集』全8巻、龍吟社、1934年
  • 花園大学歴史博物館編『遂翁元廬 禅画と墨蹟』花園大学歴史博物館、2011年
  • 陸川堆雲『考証白隠和尚詳伝』、山喜房仏書林、1963年

関連項目



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「遂翁元盧」の関連用語

遂翁元盧のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



遂翁元盧のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの遂翁元盧 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS