遂翁時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 19:46 UTC 版)
同年4月に京妙心寺に登板し、遂翁元盧と号した。初めは酔翁と号したが、妙心寺塔頭養源院院主の意見で遂翁と改めたという。転版式の後大坂に遊び、12月に帰国した。一旦は松蔭寺に住んだが、白隠との同居を厭い、翌年には庵原観音院に退居した。 同年白隠の江戸行の際、遂翁も東嶺、霊源と共に大磯宿まで見送りに出、鎌倉を経て江戸至道庵に寓居した。白隠の病の知らせを受けると、遂翁単独で見舞いに参じている。明和6年(1769年)、遂に白隠が病死すると、遂翁はこれを看取って松蔭寺に身を落ち着けた。しかし、教えを請う人がいると東嶺を訪ねるよう勧め、東嶺、大休、霊源等が人と会うよう説得を行った。 安永3年(1774年)8月、白隠の七回忌に当たって参詳語要を説き、ようやく初めての説法を行った。以降勢力的に活動し、天明4年(1784年)の十七回忌では松源録を説き、その他浜松新橋村(浜松市南区新橋町)大通院で人天眼目、興津宿(静岡市清水区興津)清見寺で碧巌録を説いている。 この期の遂翁には弟子も大勢集った。『荊棘叢談』には琉球から来た僧との逸話が記される。遂翁は僧に隻手の声を示したが、3年後帰国の期日に及んでも悟りに至らなかった。7日座禅せよというが悟らない。また7日与えるも変わらない。「古人、得道を三七日の内においてす」として更に7日与えても悟らなかった。更に5日与えたが悟らない。ついに「三日の後いまだ徹了せずんば、即ち死し去れ」と言い放ち、僧は身命を放って座禅し、3日後大悟に至ったという。 沼津宿(沼津市幸町)永明寺で五祖録を説いた後病を発した。寛政元年(1789年)夏、峨山慈棹が江戸湯島(東京都文京区湯島)麟祥院で碧巌録を提唱するに応じ、周囲の反対を押し切り病を押して出向いた。帰途暑さに倒れ、7月に松蔭寺に戻ってからは病床に臥し、12月20日(1790年2月3日)側臥位のまま死去した。遺偈は「仏祖を欺瞞すること七十三歳、末後の一句、什麼(なん)ぞ什麼(なん)ぞ。喝。」 松蔭寺は豊後国出身の門弟春叢紹珠が継いだ。
※この「遂翁時代」の解説は、「遂翁元盧」の解説の一部です。
「遂翁時代」を含む「遂翁元盧」の記事については、「遂翁元盧」の概要を参照ください。
- 遂翁時代のページへのリンク