峨山慈棹とは? わかりやすく解説

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峨山慈棹

読み方がさんじとう

江戸中・後期臨済宗の僧。奥州の人。諱は慈棹、号は峨山三春高乾院の月船禅慧のもとで得度16才から諸国行脚した晩年白隠慧鶴参禅してその印可を得、また東嶺円慈に参随する。のち江戸天沢麟祥院に昇住して白隠の門風を挙揚した。門下卓洲胡僊・隠山惟■(王+炎)らを輩出する。寛政9年(1797)寂、71

峨山慈棹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 01:48 UTC 版)

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峨山慈棹
享保12年(1727年) - 寛政9年1月14日1797年2月10日
諡号 大方妙機禅師
生地 陸奥国
宗旨 臨済宗
宗派 妙心寺派
寺院 麟祥院
白隠慧鶴
弟子 隠山惟琰、卓洲胡僊、愚谿宜恢
行応玄節、関堂玄哩

峨山慈棹(がざんじとう、享保12年(1727年) - 寛政9年1月14日1797年2月10日))は江戸時代中期の臨済宗妙心寺派の僧。白隠慧鶴の法嗣の一人で、弟子に隠山惟琰卓洲胡僊があり現代に白隠禅を伝えた。

人物

享保12年(1727年)に陸奥国で生まれる。陸奥三春町高乾院の21世月船禅慧(本格浄妙禅師)の下で出家、その後豊後国万寿寺の虚霊祖応、日向国大光寺(現在の宮崎市)の翠岩従真や丹波国法常寺の大道文可など古月派の禅僧の許に参禅する。その後武蔵国東輝庵(現在の横浜市)に移った月船禅慧の下に戻り印可を得たが、齢三十を過ぎて浅草桃林寺で白隠慧鶴の碧巌録提唱を聞いて、その下に移った。四年間白隠により錬鍛され、その没後は兄弟子の東嶺円慈によって大事了畢した。その後、麟祥院住持となる。法嗣には隠山惟琰、卓洲胡僊のほか、愚谿宜恢、行応玄節や関堂玄哩などがいる。寛政9年(1797年)1月14日示寂。大方妙機禅師と諡された。

参考文献

  • 木村静雄 著 『妙心寺 六百五十年の歩み』pp.210,211 昭和59年
  • 禅学大辞典編纂所 編 『新版 禅学大辞典』p.457 昭和60年


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