慧思後身説
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天平19年(747年)に主だった寺院で作成された資財帳のうち、『法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳』の太子による『三経義疏』の作成や、『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』の創建伝承に、日本仏教創始者としての太子信仰の芽生えが見られる。奈良時代中期には鑑真の来朝をきっかけに唐仏教の影響を受け、太子は中国天台宗の慧思の生まれ変わりとされるようになる。それによれば、前世の慧思は『法華経』を日本にもたらし、僧寺と尼寺を創建して日本の仏教を盛んにすることを予言し、転生した太子が菩薩の方便をもって出家を勧めて『三経義疏』を著したと記している。こうした伝承により太子の聖人化がさらに進んだ。なお、慧思後身説は入唐した日本の僧によって唐にも伝えられている。 慧思後身説に立脚して新たに創作された伝承が法華経将来説話である。延暦7年(788年)に思託によって著された『上宮皇太子菩薩伝』では「太子が前世で使用した『法華経』を取りに隋に使いを発した」と記されるが、のちに著された『皇太子伝』では使いは小野妹子と記される。この小野妹子将来の『法華経』が実在するとしたのが法隆寺であったが、この伝承を偽りとした『補闕記』では「『法華経』を将来したのは小野妹子ではなく、太子が超能力で取り寄せた」としている。 このような奈良平安時代に発展した太子信仰について、吉田は中国や朝鮮半島に対する日本優越主義の現れだとしている。
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