救世観音と『伝暦』の影響
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「太子信仰」の記事における「救世観音と『伝暦』の影響」の解説
左:観音菩薩立像(救世観音)法隆寺夢殿本尊。飛鳥時代の菩薩立像だが、平安時代に太子の等身とされるようになった。右:菩薩半跏像(伝如意輪観音)中宮寺本尊。飛鳥時代の弥勒菩薩半跏像だが、平安時代から太子信仰の影響で如意輪観音と見なされるようになった。 太子と救世観音の同一視は、太子信仰の根幹となった思想である。観音となった太子は阿弥陀如来の元に衆生を引摂する存在として信じられ、末法思想・浄土信仰と共に観音との結縁を望む人々に太子信仰が広まった。 平安時代初期に成立したとされる『補闕記』では、「太子の母穴穂部間人皇女の夢に金色の僧が現れ、救世の願いとして腹に宿りたいと言い、皇女がこれを承諾して太子を懐妊した」とする「救世願」が記されるが、この時点で太子は観音菩薩の化身とはされていない。 同じころ最澄は、慧思後身説と法華経将来説話を受けて太子を崇敬し、太子は天台宗の聖人に数えられるようになった。9世紀頃になり天台宗が勢いを増すと、天台僧が四天王寺の別当に就くようになった。そうした中で、天台宗の末法思想と四天王寺の太子信仰が融合し、『法華経』にある「救世」を冠した救世観音が創作され、太子と同一視されるようになったと考えられる。 太子を救世観音の化身とする伝説が最初に確認できる史料は『伝暦』である。『伝暦』の成立経緯は明らかではないが、10世紀前半に『伝暦』の原撰本が成立し、当初は1巻本であったものが徐々に増補されてゆき、現存最古の現行本(寛弘4年(1007年)から5年の間に編纂されたとされる)では2巻本になったとされる。『伝暦』は太子信仰を規定する書物となり、これにより太子と救世観音を同一視するイメージが定着していった。平安時代中期以降には、太子信仰が身分や性別を問わず極楽往生を望む者に広まっていく。 『伝暦』は『書紀』を基本として先行する太子伝を幅広く網羅したもので、古代における太子伝の集大成となり以降の太子信仰に大きな影響を与えた。例えば『三宝絵』『日本往生極楽記』『今昔物語集』など、後世の仏教書の多くは『伝暦』の影響を受けて太子以前の日本への仏教伝来について記しておらず、結果として太子が日本仏教の開祖であるという歴史認識が定着する事となった。吉田は『伝暦』が広まった理由について、四天王寺による権力者に対する働きかけが成功して貴族などの知識階層に定着し、鎌倉時代までに地域社会や民衆社会に波及していった為としている。また、田中は『伝暦』の広まりにより太子の伝承が事実のように受け取られるようになったとしている。 なお、太子の本地とされた仏には、救世観音とは別に二臂如意輪観音半跏像の一群がある。これらは平安時代後期の『別尊雑記』には「四天王寺救世観音像」と記されており、大元は四天王寺の本尊弥勒菩薩半跏像であったと考えられる。この四天王寺像が太子信仰の高まりと共に「太子本地の観音=救世観音」へと認識が変わり、真言僧の働きにより救世観音が如意輪観音と称されるようになったと考えられる。
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