救世軍士官(教役者)として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 00:30 UTC 版)
「髙橋直作」の記事における「救世軍士官(教役者)として」の解説
もとより救世軍の宣教事業の中で社会福祉の占める位置は高いが、髙橋は修養塾の吉丸一昌を社会福祉・授産事業の最初の師と仰いでおり駒込の吉丸の持ち家の一つは髙橋に譲られ後に髙橋はその150坪の土地を日本基督教団に譲渡して社会事業に役立てているほど、社会事業に対する意識は高かった。そこで救世軍は髙橋を東京本営に戻し社会事業部に属す三河島の「努力館」主任としたのが1937年8月1日だった。努力館は住むところのない勤労者の寄宿舎であったがアルコール依存症からの回復や禁酒運動にも従事する施設であった。ところが、1945年敗戦間近の4月25日、軍部からの強制疎開命令で閉鎖、建物は軍が解体して更地としてしまい活動を中止せざるをえなかった。
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