救世軍の起源
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1865年7月2日ブースは12人の有志の招きに応じてロンドン東部の貧民窟に入った。最初の予定では、向こう数週間ここで魂の救済を説くのが目的であって、これが救世軍の起源となるとは、他人はもちろんブース自身も思っていなかった。しかし、この救済活動の最中、ある夜ブースは居酒屋の前を通り、そこに集まった人々の有様を見て、彼らが最も救いを必要とする人々であり、これらのならず者や娼婦のために一身を投じたい感じた。彼は帰って妻にその理由語り、遂にこの貧民窟にとどまってながく彼らの魂のために働こうという決心した。 ブース夫人はロンドン中の最も大きな会場でしばしば大集会を開き、上流階級、中流階級の人々を集め、ロンドン東部でのブースの活動を紹介し、賛同者は増加した。ブースは新しい教派を形成するつもりはなかったが、上中流の教会に貧民の回心者を紹介しても、喜んでは受け入れず、受け入れても十分な世話をしなかった。またブースの伝道に協力する者が必要であったので、やむなくホワイトチャペルで東ロンドン伝道会(East London Christian Mission)を組織した。1870年にはキリスト教伝道会と改称し、さらに1877年、「キリスト教伝道会は義勇軍(Volunteer Army)ではない。常規兵即ち救世軍(Salvation Army)である」との霊感により「キリスト教伝道会、一名救世軍」と命名し、それがやがて救世軍となった。 1879年12月には週刊の『ときのこえ(英語版)』を刊行、翌年には士官学校(神学校)を設立するなど組織整備も進み、1880年2月にアメリカへ、1881年にはフランスへ士官を派遣した。1888年秋、ロンドンで第1回万国大会を開催し、16か国から2千余名の士官が集まるなど、活動の舞台は世界規模に広がっていった。 1907年には日本を訪れ、救世軍大将の軍服を着用したまま明治天皇に謁見したほか、日本各地を「転戦」して官民の熱烈な歓迎を受けた。 ブースは教育機関での正規の神学教育は殆ど受けられていなかったが、救世軍設立の功績から、オックスフォード大学より名誉神学博士号を授与されている。 晩年には盲目となったが、つねに貧民の身を案じ、中国伝道を指示し、「汝、もしただ信ぜば神の約束は確実なり」と唱えてこの世を去った。ロンドン近郊のアブネー・パーク墓地(英語版)に埋葬された。
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