慧生の最後の手紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:15 UTC 版)
慧生は最後の手紙を4日の午前8時頃に学生寮長の穂積宛に記し、その日の午後に投函したと見られる。末尾に12月3日夜8時5分と記されたこの手紙は便箋5枚にわたるものだったが、穂積から預かった嵯峨家が焼却してしまったため、以下は穂積の記憶に基づく。 なにも残さないつもりでしたが、先生(穂積)には気がすまないので筆をとりました。Oさんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。二日の日も長い間Oさんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純でOさんの考えの方が正しいという結論に達しました。 それでも私は何とかしてOさんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私がOさんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。また私とOさんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です。
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