萩焼 (はぎやき)
萩焼
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萩焼 |
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はぎやき |
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陶磁器 |
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茶器、花器、食器、装飾用品 |
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萩焼の起源は、400年前、豊臣秀吉とともに朝鮮半島に渡った毛利輝元が、現地の陶工李勺光(りしゃっこう)、李敬(りけい)の兄弟を伴って帰国したことに遡ります。 陶工たちは、毛利氏が萩に城を移した時も同行し、李勺光は萩で御用品を焼く窯を開くことを許されました。この窯が萩焼のはじまりとなりました。李勺光の死後は、李敬が窯を継ぎ、藩主から「坂高麗左衛門」の名を受け、その名は現在まで受け継がれています。 萩焼の当初の作風は李朝のものでしたが、その後、楽焼の作風などが加わり、現在の萩焼に通じる、独自の個性を持った作品が焼かれるようになりました。 |
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山口県 |
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平成14年1月30日 |
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萩焼の大きな特徴は、焼き締まりの少ない柔らかな土味と、高い吸水性にあります。吸水性が高いため、長年使っているうちに茶や酒が浸透し、茶碗の色彩が変化します。この変化は、茶の湯を嗜む人たちの間では「茶馴れ」と呼ばれて愛でられています。 その他の特徴としては、形や装飾の簡素さがあります。ほとんどの場合、絵付けは行われません。胎土となる土の配合、釉薬のかけ具合、へら目などが、登窯の作用によって様々な表情を生みだすことを想定した上で、その魅力を活かすように作られています。 |
萩焼
名称: | 萩焼 |
ふりがな: | はぎやき |
芸能工芸区分: | 工芸技術 |
種別: | 陶芸 |
認定区分: | 各個認定 |
指定年月日: | 1983.04.13(昭和58.04.13) |
解除年月日: | |
指定要件: | |
備考: | |
解説文: | 萩焼は、文禄・慶長の役後、毛利藩の保護のもとに、朝鮮より渡来した李勺光・李敬によって現在の山口県萩市松本に開窯され、後、同県内の長門市深川【ふかわ】等に伝播定着したものと伝えられる。その様式・技法は、朝鮮李朝系の陶技をよく伝えている。 萩茶碗は、佗び茶の趣きにかなった温雅な釉調と手どりのよさを特徴とするが、これは、主原料である県内防府市の大道【だいどう】産の白色粘土によるもので、使用するにしたがって、深い趣と変化を呈する枇杷色の釉調など、原料・技法・作調等について萩焼全般に共通する特色がうかがわれる。現在、松本に坂窯・三輪窯・吉賀窯、深川に坂倉窯・坂田窯・田原窯等があり山口市に大和窯等があって萩焼の伝統を継承している。 萩焼は、近世初期より茶陶として賞用され、わが国陶芸史上重要な位置を占めるとともに、独自の地方的特色が顕著である。 |
萩焼
名称: | 萩焼 |
ふりがな: | はぎやき |
芸能工芸区分: | 工芸技術 |
種別: | 陶芸 |
選択年月日: | 1957.03.30(昭和32.03.30) |
選択要件: | |
備考: | |
解説文: | 萩焼は、文禄・慶長の役後、毛利藩の保護のもとに、朝鮮より渡来した李勺光・李敬によって現在の山口県萩市松本に開窯され、後、同県内の長門市深川【ふかわ】等に伝播定着したものと伝えられる。その様式・技法は、朝鮮李朝系の陶技をよく伝えている。 萩茶碗は、佗び茶の趣きにかなった温雅な釉調と手どりのよさを特徴とするが、これは、主原料である県内防府市の大道【だいどう】産の白色粘土によるもので、使用するにしたがって、深い趣と変化を呈する枇杷色の釉調など、原料・技法・作調等について萩焼全般に共通する特色がうかがわれる。現在、松本に坂窯・三輪窯・吉賀窯、深川に坂倉窯・坂田窯・田原窯等があり山口市に大和窯等があって萩焼の伝統を継承している。 萩焼は、近世初期より茶陶として賞用され、わが国陶芸史上重要な位置を占めるとともに、独自の地方的特色が顕著である。 |
萩焼
萩焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/21 03:27 UTC 版)


萩焼(はぎやき)とは山口県萩市一帯で焼かれる陶器。一部長門市・山口市にも窯元がある。長門市で焼かれる萩焼は、特に深川萩(ふかわはぎ)と呼ばれる。
古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物である。萩焼の特徴は原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって生じる「貫入」と使い込むことによって生じる「七化け」がある。貫入とは器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、七化けとはその貫入が原因で、長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることである。素地の色を生かすため、模様は地味だが根強いファンが多く、市内界隈には新規を含め、多数の窯元が存在する。
萩焼の歴史
萩焼は慶長9年(1604年)に藩主毛利輝元の命によって、慶長の役の際、朝鮮人陶工、李勺光(山村家、後の坂倉家)李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされる。[1]よって当初は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていた。坂家の三代までを古萩といい、萩焼の黄金時代である。後に兄弟はそれぞれ別々の流派を生み出した。明治期より苦境に立たされており、その時に休雪が休雪白という独特の作風を確立するなどして萩焼を中興している。また、十二代坂倉新兵衛は萩焼を全国に広め不振衰退から救ったことにより、中興の祖と呼ばれている。
また、1875年(明治8年)には、萩の豪商であった熊谷五一が3ヶ月以上にわたって表千家の十一代千宗左を山口に招待したため、多くの弟子が表千家に入門した。九州大学の宮地英敏准教授によると、このお礼として「一楽二萩三唐津」というキャッチコピーが広められたとされる[1]。
萩焼の技術は、1957年に文化財保護法に基づく記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択された(保持者は十二代坂倉新兵衛)。1970年には三輪休和(十代三輪休雪)、1983年には三輪壽雪(十一代三輪休雪)がそれぞれ人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定された。2002年1月には経済産業省指定伝統的工芸品の指定を受けた。
主な作家
- 坂高麗左衛門
- 坂倉新兵衛
- 十二代新兵衛正治(選択無形文化財萩焼保持者)
- 十五代新兵衛正治(山口県指定無形文化財萩焼保持者)
- 三輪休雪
- 田原陶兵衛
- 吉賀大眉
- 坂田泥華
- 宇田川聖谷
- 梅田泰彦
- 原田昌平
- 大和保男(山口県指定無形文化財萩焼保持者)
- 大和猛
- 大和努
- 宮田佳典(経済産業大臣指定工芸品萩焼伝統工芸士)
- 岡田裕(山口県指定無形文化財萩焼保持者)
- 野坂康起(山口県指定無形文化財萩焼保持者)
- 波多野善蔵(山口県指定無形文化財萩焼保持者)
- 新庄貞嗣(山口県指定無形文化財萩焼保持者)
- 大和祐二(山口県指定無形文化財萩焼保持者)
脚注
関連項目
- 緋が走る - 萩焼を題材とした漫画。および漫画を原作とするテレビドラマ。
参考文献
- 山口県立萩美術館・浦上記念館・石崎泰之・徳留大輔編 『古萩-江戸の美意識』古萩展実行委員会、2012年
- 宮地英敏「近代日本における陶磁器産地の多様性について : 萩焼の展開を中心にして」『地球社会統合科学』第21巻第1/2号、九州大学大学院地球社会統合科学府、2014年12月、29-48頁、doi:10.15017/1477906、hdl:2324/1477906、 ISSN 2189-4043、 CRID 1390853649694536064。
外部リンク
萩焼と同じ種類の言葉
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