萩焼の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 13:01 UTC 版)
萩焼は慶長9年(1604年)に藩主毛利輝元の命によって、慶長の役の際、朝鮮人陶工、李勺光(山村家、後の坂倉家)李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされる。よって当初は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていた。坂家の三代までを古萩といい、萩焼の黄金時代である。後に兄弟はそれぞれ別々の流派を生み出した。明治期より苦境に立たされており、その時に休雪が休雪白という独特の作風を確立するなどして萩焼を中興している。また、十二代坂倉新兵衛は萩焼を全国に広め不振衰退から救ったことにより、中興の祖と呼ばれている。 また、1875年(明治8年)には、萩の豪商であった熊谷五一が3ヶ月以上にわたって表千家の十一代千宗左を山口に招待したため、多くの弟子が表千家に入門した。九州大学の宮地英敏准教授によると、このお礼として「一楽二萩三唐津」というキャッチコピーが広められたとしている。 萩焼の技術は、1957年に文化財保護法に基づく記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択された(保持者は十二代坂倉新兵衛)。1970年には三輪休和(十代三輪休雪)、1983年には三輪壽雪(十一代三輪休雪)がそれぞれ人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定された。2002年1月には経済産業省指定伝統的工芸品の指定を受けた。
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