二川以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 08:12 UTC 版)
出雲街道が近いため、古くから出雲伯耆地方と交流があったとされる。砂鉄の産出量が多く、地名や屋号にその名残がある。銅の産出もあった。種村・粟谷村・藤森村・黒杭村・小童谷村の5村にあたる地域は、もとは備前国、後に美作国真島郡建部郷に属していた。戦国時代になると高田城主三浦貞久の支配下で、種村は建明庄、あとの4村は絵加新庄に属した。三浦貞久の後、毛利領になり藤森村の飯山城で尼子勢と戦っている。戦乱をくり返したが、豊臣秀吉による天下統一の後は宇喜多氏が美作を治めた。 1847年(弘化4年)小童谷村の日尾山が勝山藩直営の鉄山になり、廃山となるまで小童谷村の経済を助けている。明治維新の頃は、種村から桑瀬分、粟谷村から大杉分がそれぞれ一村を成していた。ただ、1872年(明治5年)に桑瀬分は種村へ、大杉分は粟谷村へそれぞれ統合されている。葉煙草の産出が多かったため、1881年(明治14年)民間経営による煙草製造会社を設立している。ただし専売法の施行により1898年(明治31年)解散。
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