豊臣秀吉による宇都宮仕置きと宇都宮国綱の改易
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「中村時長」の記事における「豊臣秀吉による宇都宮仕置きと宇都宮国綱の改易」の解説
時長は宇都宮広綱、宇都宮国綱と宇都宮氏の重臣となり、旧領復帰が叶うも中村城が落城していたため、拝領された宇都宮の地に居た。天正18年(1590年)に、伊達政宗が秀吉に服属してほどなく、秀吉の日本統一が達成された宇都宮城で奥州仕置(宇都宮仕置)が行われた。この宇都宮の地において時長と政宗が接見したとされている。 慶長2年(1597年)に書かれた宇都宮国綱家臣名簿(栃木県立図書館所蔵)には宇都宮国綱の8名しかいない知行2千石以上の家臣の1番最初に名を連ねている。中村城落城後に書かれた宇都宮氏分限帳では知行100石に減封されているので知行地のほとんどが中村12郷であった事が窺える。 慶長2年10月13日(1597年11月22日)豊臣秀吉により宇都宮国綱が突如として改易された。 詳細は「宇都宮国綱」を参照 宇都宮国綱没落後は宇都宮氏の家臣たちは国綱に帯同することが許されず、そのほとんどが村役人などになり宇都宮の地に残らざるを得なかった。時長は宇都宮氏より拝領していた戸祭村の中城(戸祭城)跡地にそのまま留った。時長はこの宇都宮国綱が改易された慶長2年に没したと伝わっている。 主家である宇都宮氏と旧臣たちとの交流は江戸時代も続いたが、宇都宮氏が宇都宮城主として再興することはなかった。 中村日向守時長の仙台藩落ち延び説 遍照寺 (真岡市)の古記録では時長は中村城落城後に奥州岩ケ淵の館に住んだとされているが、仙台藩の中村日向守は元は新田氏で元禄3年(1690年)仙台藩4代目の藩主伊達綱村より中村の姓を拝領し中村日向守と名乗り岩ケ崎に住したとの記録が残されている。江戸時代でも仙台藩との交流があった同地に同じ中村日向守であったため混同されて伝わったものと考えられている。 詳細は「中村氏 (仙台藩)」を参照
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