室町・安土桃山時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:29 UTC 版)
室町時代に北山文化が発生し、客間として用いられた「会所(かいしょ)」などに座敷飾りが造られるようになり、そうした会所が東山文化で、茶道、華道、芸能など日常生活の芸術とともに発展した。この座敷飾りの場所は「押し板」と呼ばれる長板を敷いたスペースで、壁に画を掛け、前机に三具足(香炉・花瓶・燭台)をおいて礼拝していたものを、建築空間として造り付けるようになったもので、これと身分の高い人のすわる場所を一段高くして畳を引いた床を一体化したものが、一般に床の間と呼ばれているものであり、近世極初期に生まれたのではないかとされている。だが、そもそも会所とはさまざまの人々が集まる場所であり、本来的に住居である書院と混同するべきではない。プライベートスペースとしての「書院」の原型を、足利義政が慈照寺(銀閣寺)の東求堂(1485年(文明17年))に造った「同仁斎」に見ることができる。これは四畳半の小さな一間すなわち「方丈」の書斎であるが、付書院と棚を備え、畳を敷き詰めたものである。ただし同仁斎は書院としての要素は持っていてもまだ書院造とは言えない。 室町時代後期になって、押板や棚、書院を備える座敷が一般的になり、それらがヒエラルキーを持つ連続空間となって書院造の形式が整えられていった。亭主の座である上段は、原則として連続した室の東端もしくは西端に置かれ、その前方に座敷が東西に二室連なり、さらにその外側に「公卿の間」と呼ばれる小スペースが設けられ、ここに付設する車寄せを正式の入り口とした。公卿の間の南には「中門」が設けられ、ここには唐破風も設けられたからおそらくは公卿以外の人々の出入り口となった。そしてこれら連続した室の南側には、入り側を介して庭が広がっていた。上段の書院は、南側に窓を向け書見の明かり採りとするとともに上段を照らす明かり採りの用も担った。上段正面背部には押し板と違い棚が設けられ、座敷飾りの場所となった。聚楽第のような大規模な屋敷では、同様な室の並びがさらに一列北側に設けられた。聚楽大広間では、これら二つの書院造の室群に挟まれた空間を「納戸」と称しているが、これが帳台とも呼ばれた住宅における寝室であり、それゆえここと座敷を仕切る建具を「帳台構」と呼ぶ。 織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城や聚楽第の御殿の壁や襖障子には、狩野派の絵師により金碧濃彩の障壁画が描かれ、権力者の威勢を示すものであった。これらはいずれも現存しないが、徳川3代将軍徳川家光によって建てられた二条城の二の丸御殿大広間は、同様の障壁画を持つ書院造の現存例である。これは将軍が対面を行う場所であり、将軍、諸大名の席次が厳格に定められている。将軍の座る上座は押板、棚、書院、帳台構(武者隠し)によって荘厳されており、また下手から見ると床面が徐々に高くなり、上座は折上格天井という格式の高い造りになっている。書院造では亭主の席は西あるいは東を背に東あるいは西を向いて客を迎えるのだが、対面所になると亭主は南面して客を迎えるようになる。おそらく「天子南面」の思想を具現化したものであろう。もうこの段階では住居ではなく儀式空間へと特化した座敷となっている。本来寝室への入り口でしかなかった帳台構もここに至って亭主の座(上段)を飾る一装置となる。書院造の広間もひとつでなく、大広間、黒書院、白書院と雁行型に連なり、身分的なヒエラルキーだけでなく、公空間から私空間へのヒエラルキーも明瞭に示している。車寄せへと変化を遂げた中門も対面所と切り離されて遠くに設けられ、その間には訪問者の控えの間である「遠侍」や奥と訪問者の連絡を図るための場所「式台」が設けられた。儀式の場としての装置ばかりが整えられて、そこに住宅としての寛いだ雰囲気は見当たらない。
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室町・安土桃山時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 13:37 UTC 版)
室町時代は乱世で、書道は和漢ともに頽れた。安土桃山時代に入り古筆を愛玩賞味する風潮が興り、わずかに生気を保った。この時代、中国では元から明の時代に当たる。 和様 鎌倉時代からこの時代にかけて、三筆、三跡を祖とする和様が現れているが、もっとも勢力があったのは、世尊寺流、法性寺流、尊円法親王を祖とする青蓮院流、持明院基春による持明院流の4派であり、いずれも行成の流れをくむものである。また、鎌倉時代の伏見天皇ら諸天皇による宸翰様の後を受けて、この時代の諸天皇も華麗な筆跡を遺している。尊円法親王は伏見天皇の第6皇子で、その青蓮院流はのちに御家流と呼ばれ、江戸時代まで日本の書道の中心的書風となった。 禅僧の書(墨跡) この時代も禅宗は公家や武家の帰依を受け発展を続けた。鎌倉時代の禅僧の書は宋風であったが、この時代は元の趙孟頫の影響を受けている。雪村友梅、寂室元光らがその代表である。また五山文学が盛行するとその禅僧の書風に日本趣向が加味された五山様が流行した。 古筆、上代様 平安時代から鎌倉時代に書かれたかなの名筆を特に古筆という。安土桃山時代になって豊臣秀吉らは古筆や墨跡で茶室を装飾し、文人などを招いて愛玩賞味するようになった。その風潮はやがて民間にも波及し古筆はますます珍重された。もともと古筆は巻物や帖であったが、それを切断して収蔵するようになり、それぞれを古筆切(こひつぎれ)と呼ぶようになった。これらの古筆の真贋を鑑定する人を古筆鑑定家と称し、当時、古筆了佐は有名である。また、平安時代中期の三跡の書や古筆など完成期の和様書を指して特に上代様と呼び、鎌倉時代以降の書流による和様書と区別している。 この時代に書名のあった人物 詳細は「日本の書家一覧#室町・安土桃山時代」を参照 この時代の筆跡 筆跡名筆者年代書体、書風現所在大覚寺結夏衆僧名単 尊円法親王 1335年 行草 御物 梅花詩 雪村友梅 1339年 行草、墨跡(趙孟頫風) 北方文化博物館 消息 尊道法親王 不詳 行草、青蓮院流 御物 十牛之頌 絶海中津 1395年 楷行、墨跡 相国寺 葉室字号 一休宗純 1456年 楷行、墨跡 感状 織田信長 1577年 草書 永青文庫 織田信長・感状
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