室町から戦国期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 17:41 UTC 版)
「勝願寺 (古河市)」の記事における「室町から戦国期」の解説
浄土真宗の総本山である本願寺との交流も活発に行われた。当寺の第12世住職・慶順は第8代・蓮如と親交があり、第13世住職の善祐は蓮如から本尊を下付された。また、天文16年(1547年)8月から同17年(1548年)2月にかけて第10代・証如の下で三十日番を務めていることから、当寺が本願寺の末寺の中でも比較的高い立場にあったことが推測される。 戦国期に入ると古河公方との関係を深め繁栄した。大永3年(1523年)に第3代公方の足利高基から磯辺郷之内大坊宛に禁制が下されているが、これは高基と小弓公方・足利義明との間で戦闘状態となっていたことから、当寺が軍勢の乱暴を禁ずるよう高基に願い出たものと推測される。また禁制を記した文書にある「大坊」とは当寺を指すものであり、繁栄を示すものとされる。永禄2年(1559年)には古河公方家臣で関宿城主の簗田晴助から当寺に対して、磯部郷の5貫文の寺領が寄進されている。永禄9年(1566年)には関東侵攻を繰り返す越後国の上杉謙信の動きを牽制するため、第5代公方の足利義氏から加賀国の本誓寺へ使者として派遣された。 また、永禄11年(1568年)には義氏が辛嶋庄、古河、信濃太田荘の道筋で地域外への物資輸送を禁じる荷留を行ったが、当寺に対しては5疋・5所分の過所を発給し、下総と信濃の地域間を結ぶ物流を担った。こうした措置については、当寺の住職が古河公方の支配地域外へ使者として赴くこともあったことから、その便宜を図ったものと推測される。 この時期、一向宗徒と関東地方を結ぶ役割も担っており、大永3年(1523年)の北陸一向一揆の際には当寺住職の普賢が浄土真宗第9代・実如から古河公方への使者を務め、永禄4年(1561年)の越後一向一揆の際には交渉役を務めた。元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)にかけて本願寺勢力と織田信長との間で行われた戦い(石山合戦)において、当寺および磯部6か寺も石山本願寺に対して門徒や兵糧を送るなどの支援を行った。
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